令和4年1月法話「山中に暦日なし」

令和4年1月18日

~ 今できることを先延ばしにしていませんか?

謹んで新年のご挨拶を申し上げます。今年から毎月「法話」を掲載させていただくことにしました。できるだけ分かりやすく「仏様の教え」「禅の教え」を綴っていきたいと思いますが、如何せん出来の悪い未熟者。至らないところは御覧になる皆様が補っていただけると幸いです。宜しくお願い致します。早速今月の演題として標記の「山中に暦日なし」についてお話いたします。

この語は唐詩選、太上隠者の作と言われています。所謂山の中で隠居された仙人のような境地を詠んだものですが、そもそも大自然には「暦」という節目はありません。わたしたち人間だけが、現在太陽暦に基づく1日24時間、1年365日といった「節目」を刻んでいます。太上隠者はお悟りを得た後は山深いところで悠々自適の暮らしの中、暦(時間)に縛られることなく「主体的に」生きておられました。わたしたちはどうでしょうか?日々の暮らしの中、様々な迷いや不安を抱え、気が付けば一日が過ぎ、一年が終わっているのではないでしょうか。つまり、迷いや不安に引きずり回され、「暦」に使われてしまっているのが現状のようですね。太上隠者は暦に使われるのではなく、「暦」を使う暮らしをしているので、寒かろうが、暑かろうが、自らのすべきことに専念してさえすれば、そこが人生の終着点であり、始発点であると常に「主体性」を失わずに生きておられました。

ところで1月はなぜ「正」月なのでしょうか?何が「正しい」のでしょうか?
禅宗寺院では元旦から三が日「修正会」という、この一年の無事萬安を祈祷するお勤めをしております。「修正」とは間違いや欠点を直して「正しく」するという意味ですね。わたしたちは時として自分が間違っていても、「自分が正しい、間違ってない」と思い込んだり、勘違いして人やモノを傷つけたりしてしまいます。そしてなかなかその事実を認めたり、受け入れたりすることができません。この「自分だけが正しい」と思い込んでしまう「不正」の積み重ねこそが、わたしたち本来の「主体性」を妨げる正体ではないでしょうか。私のような出来の悪い人間は、自らの「不正」を修正する「正月」でも「不正」を正すことができてないので「不」正月かもしれません。「自分だけが正しい」という思い込みを手放して「時には自分も間違っている」ということに気が付けば、こころが軽くなり本来の自分に気が付くと思います。余計な(無駄な)思い込みを「修正」して、初めて「今」の自分、「今、自分がすべきこと」に目が向くのではないでしょうか。「主体性」とは自分で自分の間違い、過ちを「修正」できるバランス感覚とも言えます。

本当はわたしたちも大自然の動物や樹木のように、誰に言われるでもなく、一瞬一瞬命を全身で生きていければ良いのでしょうが、なかなか難しいですね。そもそも「時間」というのは、わたしたちが後生抱えている良い「思い」も悪い「思い」も関係なく、一点、一点の積み重ねにすぎません。つまり連続ではないのです。一点には良いも悪いも楽しいも辛いもありません。ただ淡々と点がつながり、時間という流れになるだけです。ですから余計な思いはできるだけリセットして、せめて一日一回でも姿勢と呼吸を調え、「今日出来る事」を無事終えて「おかげさま」と口に出来ればいいですね。本年もともに精進してまいりましょう。