令和4年3月法話「到彼岸(波羅蜜多)」

令和4年2月23日

~それ、誰か喜んでますか?

寒さの峠も越えて少しずつ春の気配が感じられるようになりましたが如何お過ごしでしょうか。「1月いく、2月にげる、3月さる」という言葉があるようですが、もう3月かと思われる方も多いのではないでしょうか。3月は中旬頃から「春の」お彼岸です。お彼岸のイメージとしては、お寺参りやお墓参りでご先祖様の供養をするといったところでしょうか。

彼岸とはサンスクリット語パラミ-タの音写、波羅蜜多のことです。お経をご存知の方は見覚えないでしょうか。そうです「般若心経」の題目(経首)ですね。「摩訶般若波羅蜜多心経」とは、わたしたちの不満や不安の暮らし(現実)を、そのまま満足、安心の彼岸(理想)に変える(到る)要(中心)の教えです。お寺では年中行事でも法事でも毎回お唱えしますので、実は春秋に関わらず、一年中彼岸を願っていることになります。つまり「彼岸」は仏教徒の目指す終着点であり、始発点であるわけです。

 今から20数年前の2月、私は京都にある専門道場での修行を一旦引いて自坊(吉成寺)に戻る直前でした。その頃の私は修行にも慣れて、これからという時期でした。しかしながら、吉成寺先住職が高齢で病を患っており、早く戻ってきてほしいという要望を受け入れ、納得していないものの、修行に一区切りつけなくてはなりませんでした。「このまま自坊に戻って自分は檀家さんの為に何ができるだろうか?」そんな思いが日増しに強くなっていたある日のこと。道場における作務(労働、仕事)開始10分前から開始までの10分間、早めに現場に到着して周辺の草取りをせよと先輩から命じられていました。最初はただでさえ短い斎座(昼食)後の休憩を削ることに不満を抱えていました。しかしながら、このまま私のような出来の悪い人間が何の役に立つか悩んでいたときに、ふと思いつきました。「草取りなら(誰も嫌がってしないので)自分でもできそうだ!」そう気がついた日から嫌々取り組んでいた草取りを自発的に始めるようになりました。残された時間と、「今」すべき役割が見えてきたとき、自分でも驚くほど、草取りに真剣に向き合っていました。最初は10分前に作務現場周辺だけの草取りだったのですが、1か月も続けていくうちに、気が付くと、斎座後、休憩なしに草取りをしていました。当然草取り範囲は現場周辺だけでなく、道場のありとあらゆる箇所の草が引かれ、先輩や老師(修行道場の指導者)から「境内が見違えるように綺麗になった」とお褒めの言葉いただいたことを思い出します。自分が喜んでさせていただいたことが、結果誰かの喜びとなっていたことを実感した瞬間でした。目の前の草取り(現実)に違いはありませんが、嫌々向き合う自分から喜々向き合う自分に変わった(到った)とき、ほんの少しですが、此岸から彼岸が見えた気がしました。

 彼岸(理想)とはわたしたち自身の現実問題です。思い通りにならない人生(現実)を嘆いて好き嫌いの感情に振り回される(此岸)か、思い通りにならないのが当たり前のことと腹をくくって(覚悟を決めて)好き嫌いを越えて前に進む(彼岸)かは、わたしたち次第です。でも同じ進むなら、自分が喜んでやりたいですし、結果、自分だけでなく誰かに喜んでもらえたら(到彼岸)一番理想と言えるのではないでしょうか。春は冬の寒い期間にコツコツと積み上げてきた精進の成果が少しずつ花を開かせる時であるとも言えます。特に積み上げてきたものがなければ、一緒に「おかげさま」を始めませんか?「たかが」おかげさま、「されど」おかげさま、六波羅蜜という「彼岸」に到る六つの「修行」(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)が同時に行える、たった五文字の「名号」もしくは「お経」を一日一回、姿勢と呼吸を調えて口に出してみましょう。「生きる」と「生かされる」が同時に実感できるのが彼岸ですので、毎日「おかげさま」で「彼岸」になれば良いですね。