令和4年5月法話「青山元不動 白雲自去来」

~見ないフリしていても 今もそこにあるよ

yoasobi(群青)より

 新緑を迎え、自然の息吹を感じる季節となりましたが、如何お過ごしでしょうか。新年度が始まって一か月も経過すると、少しずつ慣れて単調な日々の繰り返しなどに飽きてきた方もいるのではないでしょうか。表題「青山せいざんもと不動ふどう 白雲はくうんおのずから去来きょらいす」は「五灯会元」という禅の問答集にある一節です。

 「青山」とはわたしたちに備わる不安や迷いに惑わされない「本来の自己(こころ)」を表しており、「白雲」とはわたしたちを惑わす「不安や迷い」を表しています。雲がかかろうが晴れようが、青山はいつでも、そこに、間違いなくあります。つまり、わたしたちに備わった「本来のこころ」はどんな不安や迷いが生じても、わたしたちから離れたり消えたりすることはありません。とは言え、なかなか現実は甘くないことも事実でしょう。

 禅宗修行道場での一年のサイクルは、仏教が生まれたインドにならって雨安居、雪安居(夏季、冬季)の2季に分けられて営まれます。雨安居のスタートはちょうど今頃の5月1日です。同時に1日から7日までの一週間は坐禅、参禅(禅問答)に特化した強化期間であり、起床午前3時、就寝およそ12時から1時(入門順に夜の坐禅時間が違うため)です。わたし自身は入門したての頃、作法もおぼつかなくて、罵倒され通し、長時間の坐禅で足の痛みが頂点に達するなど、なかなかの苦行の日々でした。

最初はとにかく、目の前の苦痛からどう逃げられるか、誤魔化すかの試行錯誤でした。しかしながら私の浅はかな計らいを見透かしたように、坐禅の時間はまったく進みません。嫌がれば嫌がるほど、時間が長く感じられます。坐禅の1セットは一炷といって線香一本が燃え尽きるまでの時間で大体30分から45分です。これが終日延々と繰り返されます。一日目、二日目までは、何とか思いつきの現実逃避で誤魔化せたものの、三日目くらいからは、坐っても立っても、歩いても足が痛いので、逃げ場がなくなります。さあ、ここからが本番です。もはや諦めるしかありません。そう、腹をくくって覚悟を決めるのです。足が痛いのであれば、これが当たり前、当たり前。目の前の呼吸と禅問答に意識を集中していくのです。というかそれしかできません。

「足が痛い、何とかそれをから逃れよう」という白雲を払えば、今、自分がすべきもの、青山が顔を出します。絶望(不安)は希望(安心)の裏返しです。ですから絶望から目を逸らしたり、蓋をしたりしてしまえば希望さえもなくなります。修行全体から考えれば、坐禅初期の足の痛みなどは最初の関門程度で、辛いことに多少耐えることなど些細な不安と迷いです。

しかし、当事者としては目の前の苦痛はできれば避けたいわけですから、大問題です。だからこそ、目の前の現実問題を見て見ぬふりするのではなく、まずはしっかりと受け止めるということが何より大事だと思います。嫌なもの、苦手なものから、逃げようという「こころ」の「かげ」(闇)から目を逸らさないで、しっかりと見据える(刮目する)ことで「ひかり」(希望)が生まれる気がします。

 苦痛や不安から逃げ出したいと感じたとき、まずは勇気を出して一歩踏み込む。初動(最初の考え方、行動)が大事だと思います。現実逃避も大事ですが、逃避しても現実に戻ってこなければなりません。わたしたちには「青山」に夏の訪れを感じ、美しい景色を美しいと受け入れることができる「こころ」が常に備わっています。しかし時として、迷いや不安の雲が毎日のように湧いてきて、美しい景色を美しいと素直に感じられない場合もあります。理解できないことを否定したり、排除しようと蓋をしたり、見て見ぬふりをしても、現実は変わらないのです。しかし、その現実に対して感情(好き嫌い)を超えて受け止めたとき初めて、「青山」(本来の私たちのこころ)が美しいと見えてくると思います。

サブタイトルはyoasobi「群青」からの一節です。「今」すべきこと、こころから好きなことは、表面的な「好き嫌い」の暮らしの中でかき消されていますが、偽りのない自分はきちんとわかっています。得てして自分が嫌い、苦手な(と思い込んでいる)ものは、それから逃げれば逃げるほど、迫ってくるもので、逃げ切れないものです。しかも一度でも逃げ出したり、蓋をしたりしてしまうと、私たちのこころの「闇」(絶望)は深まり、「ひかり」(希望)は遠ざかる一方です。ならば、堂々と受け止めて乗り越えようじゃありませんか。でもやはり、嫌いなものは嫌いですようね?そういう時こそ、姿勢と呼吸をまず調えて「おかげさま」を呪文のように唱えてみましょう。嫌いな(苦手な)モノ(不安)を乗り越える力を引き出してくれる、私たちの味方(武器)となってくれるでしょう。白雲という「かげ」(不安)から逃げようと思ったり、隠れたりしなければ、青山「ひかり」(安心)は自然と見えてくるのですから。