令和4年11月法話「古人刻苦光明必盛大也」

~苦しみだけが今よりいい境地(ばしょ)に連れて行ってくれる

GARNET CROW smiley naition より

 今年も残すところ、2ヶ月となり、そろそろ年末年始の支度も始まるところではないでしょうか?修行道場の節目としましては、11月1日から雪安居(冬季)です。そして1日から7日までの一週間は雨安居(夏季)と同様、坐禅修行強化期間(入制大摂心)となっています。摂心前夜、修行僧は一堂に方丈に集められ、低頭(畳についた両手に額をつけた礼)したまま、老師(修行道場の指導者)からの、ご垂示を受けます。その冒頭で禅関策進という書物の一節が告げられます。

 厳しい坐禅修行を控え、時に私たちは弱気になります。そこで老師は極寒の地で坐禅をしていた慈明楚円和尚の話をひときわ大きな声で読み上げます。慈明和尚は「古人刻苦光明必盛大也」(先人たちは厳しい修行を苦しみ抜いた末に、大いなる成果すなわち自らの本性を見届ける(見性、悟る)ことができた)を座右の銘として、坐禅中に睡魔に襲われたとき自らの腿に錐を刺し、坐禅に打ち込んだ。その厳しい修行の結果、優れた禅僧となり今日に伝えられている。発奮し修行せよと。

  お寺生まれでない私は、母親の生家であるお寺(吉成寺)の後継者に薦められたご縁で出家しました。しかし、それを断るという選択肢もあったわけです。では何故、出家を決意したのかということに少し触れてみたいと思います。20数年前、大学を卒業して市役所に就職した私は、上級職、初級職合わせて70名近い新規採用者と研修を受けていました。2週間の研修が終わり、配属されたのは「(保健福祉部)生活保護課」でした。実は研修中から一番配属されたくない部署だとされていて、辞令をもらったとき、相当落ち込んだ記憶があります。

生活保護はありとあらゆる生活に困った人たちが対象となります。一方で、その給付の財源は税金であるため、生活困窮が客観的に適正かどうか、審査、調査して給付を決定し、その後、生活保護を必要としない自立へと導いてゆくのが主な仕事です。表向きは困っている人を救うわけですから、やりがいのある仕事です。しかしながら直面した現実は甘くありませんでした。私の担当となった地区でも、元暴力団関係者、夫のDVから逃れてきた母子世帯、家族も対応困難な重度精神疾患者などなど、訳ありの世帯80件ほどが割り当てられました。親のすねをかじって、何の苦労もなく大学まで過ごしてきた私にとって、それは人生で初めての思い通りにならない「苦しみ」でした。なかなか目の前の現実を受け止められないまま、新米ケースワーカーとしての日々が過ぎていきました。逃げ腰ながら、何とか職場の上司、先輩などの支えもあって仕事にも慣れてきたある日のこと。病気を患って一時的に生活保護を受給していた対象者の家庭を訪問しました。あらかじめ、その方の傷病証明書を発行した医療機関に病気は治癒しているので就労可能という医師の所見を確認していたため、それを本人に告げ、そろそろ求職活動をしてみてはと勧めました。ところが私の言い方が気に食わなかったのか「税金でぬくぬく食っているお前らに、わしらの気持ちがわかるか?」と大声で怒鳴られてしまいました。私はびっくりして、委縮してしまいました。本人をなだめて、その場を収めて帰りましたが、なんだか釈然としませんでした。まだ若く未熟だった私は感情的に「あんたも公務員試験受けて公務員になればいいじゃないか」という浅はかな思いが沸き上がる一方、その人がそういった能力、家庭環境になかったことも承知していました。その時、それまで意識することなかった「苦しみ」の本質に触れた気がしました。私が市役所で生活保護課の仕事をしているのは、「たまたま」、経済的に困窮していない家庭に生まれ育ったからであると気が付いたのです。もし生活保護を受給している方のように経済的に困窮する家庭に生まれていたなら、私も受給者になっていたかもしれない。そもそも、生まれ(いのち)は選べない、それが「苦しみ」のスタートラインなのか?この疑問は、その後私の頭から離れませんでした。それに蓋をして見ないように現実逃避も試みましたが、なぜか、その時はそれを誤魔化して(自分に嘘をついて)生きていくことができませんでした。そしてその疑問を解決するには、出家しかないと思い込んでしまったのです。

 古人刻苦光明必盛大也、それは決して昔の偉い人のことではなく、今を生きる私たち自身の「生きる」姿勢のことであると考えます。「真剣に」生きていけば、必ず思い通りに進まない「苦しみ」に直面します。その時、その「苦しみ」に向き合うか逃げるかで、後の人生に大きな影響を及ぼします。「刻苦」、苦しみを刻むとは「いつでもどこでも自分は真剣に生きているか」の自問である気がします。禅僧となった今でも私は無意識に苦(思い通りにならないこと)を避け、楽(思い通りになること)に逃げこんでしまいます。世間的に言えば、公務員を続けていた方が、経済的にも役職的にも「楽」であったでしょう。それでも、私は「真剣に」生きるために小さいお寺を預かって、経済的にも役職的にも、「苦」であることを選択しました。辛いことばかり続く日々ですが、何とか毎日「おかげさま」で生きて、生かされています。

それは仏教の出発点が「生きる」こと自体が「苦しみ」であると強く教えてくださっているからです。ですから人生は辛いのが「本物」(真実)で、辛くない人生は「偽物」(幻影、虚偽)ということになります。この事実を軽んじて、自分に限っては思い通りに生きることができると、「楽」に逃げているのがわたしたちの現実の姿ではないでしょうか。けれども時間は待ってくれませんし(1.諸行無常)、人生が思い通りにならない(2.諸法無我)のも変わりません。その真実に気が付いた人から「楽」(安心)となります。(3.涅槃寂静)それでもなお、自分の思い通りになるはずだと「我」を通すのであれば、未来は「苦」(4.一切皆苦)となります。(四法印・・・仏教の基本原理)

 ならば「おかげさま」と姿勢と呼吸を調えて「前に」進んでまいりましょう。目の前の現実を「苦しみこそがいい境地(ばしょ)に連れて行ってくれる」であると念じながら。