令和5年2月法話「 自灯明 法灯明 」

~ 将来何してるだろうって? 大人になったらわかったよ 何もしてないさ
ヨルシカ だから僕は音楽をやめた より

 先月下旬は全国的に大雪に見舞われ、大変だったと思いますが、如何お過ごしでしょうか?
2月15日はお釈迦様がお亡くなりになられた「涅槃会ねはんえ」です。

 「自灯明じとうみょう」、本来、私たちは誰もが自らも他も照らせる輝き(「本来の」主体性)を持っています。しかしながら、目の前の傷み、苦しみを避ける繰り返しの中で、自分で輝きを封印させてしまっています。自らの輝き(「本来の」主体性)はそれ自体では気が付くことができないので、照らす対象が必要となります。それが「法灯明ほうとうみょう」と考えます。
「法」とは「教え」のことですが、狭義には「お経」(坐禅)」などの(良い)「手段、道具」と言えます。

 昨年11月に「臨済宗青年僧の会」主催の「住職学講座」に参加してまいりました。「坐禅」の講座があり、講師は相国寺専門道場で修行を共にした先輩、佐々木奘堂師でした。師は高学歴ながら、ご縁で出家され現在、大阪天王寺区で檀家のないお寺の住職をしておられます。関西だけなく師の育った関東にも足を延ばし坐禅を布教しておられ、私も大変尊敬しております。ところで臨済宗寺院で毎週坐禅会をしている私がなぜ、今さら「坐禅」を学びに出かけたのでしょうか?

実は私自身が「坐禅」(私の思い込みの)に寄りかかって「坐禅」に使われているのではないかと感じていたからです。佐々木師は臨済宗の開祖、臨済義玄禅師(中国)の語録「臨済録」の中から、
「你莫認衣 衣不能動 人能著衣」
(修行者よ、思い違いをしてはいけない。衣(道具、手段)は動くことができない。人が(状況に応じて適切に)衣を着たり脱いだりできるのだ)
を特に強調(ポイント)されていた気がします。臨済宗の標榜する「坐禅」は、私たち本来の輝き、主体性に気が付くための手段、道具であり、人(私たち)が「主体的」に「坐禅」に向き合っていかなければならないのです。

講座の中で佐々木師は「坐禅」の坐り方について、造作のない自然な坐り方(挙動)を指摘されました。その実例としてハイハイ(這い這い)をしていた赤ちゃんが「おすわり」に移るまで、何度も失敗を繰り返しながら、ついには身体的に最も理想的な姿勢(腰がピンと伸びた)を「自力」で気づいていくことを挙げられました。かつて生まれたばかりのわたしたちは、何の雑念もなく、ひたすら目の前の問題に裸一つで立ち向かい、それを克服してきました。しかし時間が経ち大きくなるにつれ、迷いが増える一方で、目の前の問題に純粋に取り組むことが難しくなっていきます。ですから大人の私達には本来の主体性(輝き)を取り戻すために「坐禅」という「道具」を活用しながら自分に向き合う(修行)必要があるのではないでしょうか?
しかしながら、一方で「道具」(手段)という意味合いをいつしか忘れ(麻痺して)「道具」に依存(寄りかかって)して日々の暮らしを満足させてしまっていることも事実でしょう。これは何も「坐禅」という仏教、禅の内容にとどまらず、毎日目にしているパソコンや、スマートフォンを始め、ありとあらゆる道具(手段)に当てはまります。目的は本来の自分に気づいて、目の前の問題に真っすぐ、向き合うことであるはずです。そのために便利な道具(手段)を使わなければならないのに、途中で目的と手段が入れ替わってしまうのは、よくあることです。わたし自身が、目の前の大事なことに対して、きちんと向き合わず、いつもお金に執着し、他者との優劣に拘り、欲や刺激に依存して「道具や手段」の奴隷となっていました。その結果、大切な人やモノ(時間)を失い、初めて「自分の誤り」に気付いた次第です。

 吉成寺の属する臨済宗妙心寺派の生活信条に「第一条 一日一度は静かに坐って身体と呼吸とこころを調えましょう」と謳われています。わたしたち自らが眠らせている本来の「主体性」を呼び起こすには、特効薬、近道はありません。思いついたときだけするのではなく、わずかな時間でも良いので、毎日身体(姿勢)と呼吸を調えることを繰り返し、積み重ねの中で、育てていくもの(こころ)であります。この第一条は「坐禅」を言い換えています。

もう一歩踏み込むと「仏」を言い換えているのではないでしょうか。本来の自分を見失わないように、道具(手段)に振り回されがちの自分を自分で軌道修正する、この「主体性」こそ「仏」である気がします。私たちは「常に」何かに寄りかかって(依存して)暮らしています。それが仕事(お金)か家族(愛情)か趣味(娯楽)は人それぞれでしょう。臨済禅師が残された「衣不動能」すなわち「衣は動くことができない」とは、すなわち自らの本来の主体性に気づいていなければ、衣(手段、道具)に操られて(振り回されて)人生は終わってしまうということであると考えます。自らの「こころ」を活かすも活かさないのも自分次第。しかも自分を活かすことができないことは、同時に他(現実)を活かすことができないのと同義です。

私が京都の専門道場で修行中、「即今」という言葉を繰り返し耳にしました。(今なら林修先生の「いつやるの?今でしょ」)あれこれ迷っている間に時間だけが過ぎていきます。すべきことは頭ではわかっている、しかしやっていない(行為として積み重ねていない)からこそ、人生は虚しくなるのではないでしょうか。わたし自身、大人になって虚勢や見栄ばかり張って生きていたことに自分で気づいたとき愕然としました。しかし偽りの自分を失って初めて本来の自分が顔を出します。自分の生き方に疑問や違和感、苦しさを感じているなら、それが教えに近づく入口です。
「おかげさま」という、たった五文字の名号(お経)を姿勢と呼吸を調えて(手を合わせて)お唱えする「修行」を、諦めずに続けてみませんか。ある日「おかげさま」(法、道具、手段)に使われているのではなく、「おかげさま」を使いこなし、自分も他も照らしている「自分」に気が付くに違いありません。

とにかく「即今」(たった「今」から)ですよ!