令和5年3月法話「 彼岸会 」(到彼岸)

彼岸会(ひがんえ)/ 到彼岸(とうひがん)

他人の痛みが他人にわかるかよ、百年たてば誰でも骨だ
ヨルシカ 強盗と花束 より

 少しずつですが春の訪れを感じる今日この頃、如何お過ごしでしょうか?
3月21日は「春の」お彼岸中日です。

 一年のサイクルとして、お彼岸の中日は「寒」(静)から「暖」(動)または「暖」(動)から「寒」(静)へ移り変わる節目です。春のお彼岸は寒い間を耐え忍んだ成果を少しずつ、表に現わしていく時期ではないでしょうか。以前掲載した通り「彼岸」は仏教語で迷い不安の多い世界「この世」(此岸)に対する言葉です。迷いがなく安心な世界が「あの世」とされています。

 昨年の夏、お盆の棚経(檀家さんのご自宅へお参りする)に出かけた時のこと。まだコロナ感染関係で各種行事が制限されていたこともあって、以前は、お経をあげた後、お茶をいただきながら、お話したりしていたのですが、予め、読経後は速やかに失礼することをお伝えていました。あるお宅でお参りが終って帰ろうとしたところ、ご主人に呼び止められました。「孫がどうしても、和尚さんに聞きたいことが、あるようで・・」ご主人夫妻の隣でお参りしていた、小学5年生の男の子が、恥ずかしそうに坐っていましたので「何でも聞いていいよ」と伝えました。すると意を決して「和尚さん、あの世って本当にあるの?」と真剣な顔で、尋ねてきました。一瞬、あまりのストレートな質問に、コンマ数秒、フリ-ズ(思考停止)してしまいました。しかし持ち直して逆に「あの世の反対は何だと思う?」と聞き返しました。男の子はしばらく考えてから「・・・この世?」と答えました。「そう、私たちが生きている世界だね。この世という言葉があるからあの世がという言葉があると思わない?別の言い方をすれば、生きているこの世はわかる世界、生きていないあの世はわからない世界。この仏壇は「あの世」だよ。おじいちゃんが毎日手を合わせて拝んでいるでしょ?なぜ拝んでいるかって?信じているからだよ。わからない、「あの世」から生まれて、こうして「この世」で何某(個人名)君と家族になって一緒にお参りできて、また自分も「あの世」に行かないといけないことを」続けて「和尚さんも「あの世」に行ったことがないから、わからないんだ。でも同じように信じている。だから拝むんだよ。逆に言えば信じなければ「あの世」はないのと同じ。だから、この仏壇も拝まなければ、「あの世」でも、「ご先祖様」でもないんだよ」男の子は神妙な顔つきで聞いてくれましたが、私の言葉で納得したかどうかはわかりません。「有難うございました。」と言ってくれたので逆に私の方が救われた気持ちです。

しかしこのお話のポイントは、男の子がこの質問をしてきた背景にあると思っています。つまり祖父母が毎日大切に手を合わせている仏壇とは何か、あの世とは何かということを考えずにはいられない暮らしをされていることを意味します。祖父母が普段から仏壇を拝むことがなければ、お孫さんからこういった言葉が出ることはありません。平素の積み重ねだけが、わたしたちの人格(徳;自他ともに良い影響を与えるモノ)となっていることを目の当たりにした出来事でした。つまり行為(業)、アウトプット(出力)の影響は必ず出るものの、わたしたちは目の前(この世)のしかも短期間で結果を求める都合の良い考え方に縛られて生きていますので、先(あの世)を見越した行為はなかなか出来ません。私自身、こうした檀家さんとの触れ合いの中でインプット(入力)は大量に蓄積していますが、なかなか実践(行為、アウトプット、出力)に結びついてないのです。

「彼岸」(あの世)と「此岸」(この世)を結ぶ(渡る)架け橋は、今を生きる私たちの「行為」(実践)そのものではないでしょうか。

 吉成寺の本山妙心寺生活信条第二条に「人間の尊さに目覚め、自分の生活も他人の生活も大事にしましょう」と謳われています。先月まで掲載した法話の中で私は繰り返し、「本来の」主体性についてお話してきました。この主体性こそ「人間の尊さ」であり、「仏」と呼びます。角度を変えて「いのちの尊さ」「こころの尊さ」に置き換えてみても良いでしょう。わたしたちが「本来の」主体性すなわち「仏」に目覚めた(気付いた)とき、自分と他人の差別(区別)はありません。なぜなら人生は「分からないことだらけ」だからです。つまり、私たちは目には見えない、「自他の支えあい」の中で、かろうじて生きて生かされているにすぎないのです。「無事(平常時)」は気が付きませんが、近年のコロナ禍、各地の災害、はたまた、事故や病気、不景気など、いわゆる「有事」には自分一人でどうにかなると考えて暮らしていくことに、限界が来ていると感じませんか。しかもウイルス感染や異常気象というのは、常に私たちの傍に控えていて、この先はずっと「有事」になる気がします。だからこそ「自分一人さえ良ければ」という「我」(主観、思い込み、先入観、固定観念)つまり「此岸」(この世)に拘った「行為」を見直す必要があるのではないでしょうか。

そもそも「あの世」はわかりませんが「この世」は分かるはずです。他人の痛み(あの世)はわかりませんが、自分の痛み(この世)はわかります。しかし分かっているつもりでも分からないのが自分(この世)です。自分の痛み、苦しみ(この世)って何であろうか?という本質的な(本物の)疑問が湧いてきたときに、そこから逃げずに(誤魔化さずに)自分に「向き合う」(寄り添う)ことができたなら、自分一人では解決できないことに気付くはずです。自分(この世)という存在は、他者(あの世)との関係性で意味があることを。(色即是空)つまり、この世とあの世は二つであって一つなのです。ですから、理論上は他者(あの世)の中に自分(この世)を見ていく(空即是色)ことが、「到彼岸」と言えます。私自身も、このことは、頭ではわかっています。しかし実践(行為、業)となると、やはり迷いや不安が生じます。だからこそ私は「おかげさま」を口にしながら、姿勢と呼吸を日々調えています。なぜなら、信じているからです。迷いや不安こそが、「おかげさま」の「本体」であり、姿勢と呼吸、こころを調える実践(行為)を日々積み重ねることが、「自分の生活(この世)も他人の生活(あの世)も大事に」することに繋がっていくことを。