令和5年4月法話「天上天下唯我独尊」

天上天下てんじょうてんげ唯我独尊ゆいがどくそん 

なんてことない このいのちが急に特別なものになる

~RADWINPS 「祝祭」より

 4月となり、令和5年度もいよいよ始まりましたね。令和の開始と同時にコロナ禍が始まったと記憶しています。この5年間で様々な変化が起こりました。まさに仏教三法印の一つ「諸行無常」(この世のあらゆるものは常に止まることなく変化し続ける)ではないでしょうか。4月8日はお釈迦様がお生まれになった「降誕会」です。

 お釈迦様はお生まれになられて、すぐに7歩進まれ、「天上天下唯我独尊」とお告げされたと伝えられています。のちにお悟りを開かれてからは、こうもおっしゃいました。「この世のどこを探しても自分より愛おしいものは見つからない」しかしながら、わたしたちは時として、自分が嫌になることも多いのではないでしょうか。

 わたしたちの「こころ」は科学的(医学的)には「脳」のはたらきに依存しているところが大きいと考えられています。「こころ=脳」では決してありませんが、「脳」のはたらきが「こころ」に大きく影響を与えていることは、間違いありません。そのことを強く意識せざるを得なかったのは、「こころの病」(わたしの場合は双極性障害、昔でいうところの「躁うつ病」)を患った経験があるからです。今から8年前、吉成寺での大きな行事(授戒会)を無事終えて一時的な安心と達成感の中にいました。しかし間もなく、それまで感じたことのない喪失感、虚脱感に襲われて「うつ状態」が始まったと記憶しております。原因は複合的ですので、一概には断定できませんが、陥った状態だけは今でも記憶から消えません。漠然と見えていた未来が暗闇に覆われ出し、日々あらゆる感覚が失われてゆくのが、わかりました。見るものはカラ-からモノクロに映り、色彩感覚が日に日になくなります。
 オ-ディオが好きで音楽が趣味だった私の耳に届く音も立体的なステレオから単調なモノラルに変わり、口にする食事の味も、何を食べても、香りもせず、おいしいという感覚さえなくなりました。「生きている」実感が失われていったのです。それでも、自分に限って「こころの病」になるわけがないと、現実を受け止められずにいました。しかし、以前できたことが、どんどんできなくなり、寝たきり、引きこもりのような状態にまで到りました。当時の妻に促され、渋々精神科に受診し、半信半疑、試行錯誤の治療が始まりました。以後の状態を描写するには長編小説一冊になる程のボリュームが必要ですので割愛します。約2年間の「うつ状態」1年間の「そう状態」約3年間、自らの「こころ」がコントロールできない状態にありました。この間、様々な方々にご迷惑をかけ、問題行動を起こし、大切な人(家族)や時間を失いました。失って初めて自分が「病」であると受け止める(向き合う)、つまり自覚(認知)できたのです。そして、はっきりした原因がわからいまま症状が改善していました。気付いた時には、こころの異常を来した私の看病に疲弊し、絶望して去っていった家族の残像だけが漂っていました。
 あれから5年経過していますが、今となって発病の前後や経緯を思い出して、自分で因果関係を分析しています。それがこの法話作成でもあります。今でも、自分をどこか「疑い」続けているのです。正直苦しいことでもあり、辛いことでもあります。しかしながら、「脳」が映し出す、自分にとって都合の良い綺麗ごとに騙され続けていたことに気付いたからこそ今、「おかげさま」で「生きている」と実感しています。わたし個人に限って言えば、何の役にも立っていない価値のない人間なのだから、そもそも思い通りにならないことが当たり前なのです。脳は「疑う」という行為(プロセス)は負担が大きいため、普段は余力を残そうと「思考停止」させ、簡単に「信じる」というシステムを構築しがちだそうです。つまり私たちは「脳」に騙されやすいということです。(中野信子著書「フェイク」より)以前はわたし自身が、人と違って自分は価値があると「信じ」、錯覚して生きてきた気がします。私自身にはそもそも価値はありません。その代わり、自分の価値が「今から未来に向けての一瞬一瞬行為そのもの」であることを「病」の体験を通して、理解しました。つまらない自分であっても未来に向けた行為によっては生きていても良いのだと。むしろ価値がないからこそ、自分で価値を生み出すために他者と関わり、必要とされることが「生きる価値(意味)」ではないでしょうか。

 「天上天下唯我独尊」、この世のあらゆるモノは(自分も含めて)皆自分だけが大事である(と信じている)。お釈迦様は生い立ちからすると、王族後継者ですので表面的には恵まれていたように見えます。しかし、ご自身の現実(主観、認知)を常に「疑い」続けられ、お悟り(本物の大事、本物の「信じる」)を得られました。わたしたちを含むどんな生命も、自分が最も大事であることは普遍の真理と言えます。だからこそ、多くの人、生命で囲まれた現実とどう「向き合う」かが、本当の意味で「自分を大事」にしているかに繋がるのではないでしょうか。吉成寺の本山妙心寺生活信条第三条は「生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう」です。2月、3月法話で触れた妙心寺生活信条はそれぞれ「仏(わたしたち本来の主体性)」、「法(主体性に導く教え)」でした。この第三条は「僧(仏を信じる仲間たちと共に行じる)」つまり「実践、実行」を表しています。
 私たち本来の主体性は、「脳」が常に「苦」を避け「楽」に傾けようと防衛本能を作動させるため、気が付かずにいることが大抵です。私たちの暮らしは、そう簡単に変わりません。ですから、自ら「苦」(思い通りにならない)に飛び込んでいく必要はありませんが、せめて、自分の身に降りかかる、あらゆる「苦」を真正面から受け止めて(向き合い)、迷いや不安が生じたなら、それまでの「自分」(主観、認知つまり信じているモノサシ)を疑ってみてはいかがでしょうか。案外、自分の好き嫌いに偏った見方、考え方(脳が映し出す幻)が原因で行き詰まり(迷い、不安)を感じていただけかもしれません。思いのほか、私たちの「脳」が見せる世界を「信じる」ことは危険です。迷いや不安を抱える私たちの「脳」のはたらきを「疑い」(向き合い)、そこに寄り添うことが自らの本来の主体性(こころ、いのち)を「信じる」ことに繋がる気がします。そして自らの苦しみ(迷い、不安)から逃げることなく、受け止めたとき始めて、生きている実感、すなわち生かされていることを自覚(本来の主体性)でき、前へと進むモチベーション、エネルギ-になると思います。そうなれば、誰か、何かの役に立たずにはいられない(実践、実行)と声なき声に背中を押されることでしょう。だからこそ、一瞬(一呼吸)を無駄にしないためにも、「脳」に「おかげさま」と念じる修行を軽く見てはいけません。その積み重ねの「おかげ」で、ある日、当然気がつくと思います。なんてことない、この命が急に特別(尊い、大切)であったことを。