令和6年7月法話「山門施餓鬼会」

山門施餓鬼会さんもんせがきえ

渡る世間は鬼ばかり!?

 梅雨も真っ只中。私の記憶が正しければ、京都の修行中、祇園祭前後が梅雨明けだった気がします。
7月は中旬頃から禅宗寺院で「山門施餓鬼会」が厳修されます。

 「施餓鬼会」とはその言葉が表す通り「餓鬼」注1に「施す」法会です。誰からも供養されることのない餓鬼道に堕ちた御霊に供物を捧げ、読経します。その功徳(善行)を私たちのご先祖様に廻らせて供養します。「(餓)鬼」は目に見えません。「鬼」はある辞書では「おん」の音変化で「おに」とされています。

 あまり大きな声では言えませんが、実は「私」も度々「鬼」になります。「鬼」と言えば、真っ赤な顔をして「怒っている」、感情剥き出しで「怖い」。大雑把に言うと、恐ろしく醜く、見ていられない、近づきたくない、などでしょうか。いずれにせよ避けられる存在である気がします。何故、私が「鬼」であるかというと、私を「避ける」方がおられるのです。多少は身に覚えがありますが、あからさまに、さげすまれたり、避けられると、こちらも良い気がしません。その方と一緒にいると、当然気まずく、息苦しさを感じてしまいます。「あの人はきっと、私のことを下に見ていているから、嫌がることを平気でできるんだ」そういった思い、感情が一旦沸き起こると厄介です。意識しないようにしていてもマイナスの感情が脳内に蓄積されていきます。つまり、(上からモノを言われていることに対する)怒りで自分が見えなくなってゆくのです。嫌がらせに対抗するには嫌がらせ(報復)しかないという悪い思い(三毒:注2)に冒されて(占領されて)しまいます。この時は(そんな自分に)気づくことが出来ませんでした。醜い感情を抱き続けていた「私」はさぞ醜い「鬼」ではなかったかと思うと、自分の姿を直視しかねます。

 しかしながら、ある言葉で醜い感情を抱き続けていたことに気が付いたのです。それは「捨」でした。毎週、坐禅の前には法話引き続き、坐禅中の注意事項を繰り返します。一つ姿勢、二つ呼吸は勿論ですが、私は自分の体験から第三の注意、「思考」を強調しています。姿勢と呼吸に気を付けていても、繰り返しの中ではどうしても、集中が途切れてしまいます。集中(今すべきこと)が欠けた瞬間から止めどなく、余計な思いは次から次へと湧き起こってきます。それらにいちいち飛びついて、握りしめてしまうと、せっかく一週間に一度しかない「坐禅」が台無しになってしまいます。外から見れば「坐禅」をしているように見えても頭の中では「妄想」で一杯、これでは普段の暮らしと同じになってしまうのです。とにかく、湧き起こる思いは、そのまま手付かずにして(湧かせっぱなし)片っ端から「捨てて」(手放して)ゆく。坐禅に参加されていた方々には毎回訴えています。伝えながら、「ハッ」と気付いたのです。そう言えば、最近自分に「嫌がらせ」をしてくる人への「憎悪」の感情を自覚できず、握りしめたままだった!実は私自身が「自分」(餓鬼)に拘って「捨てて」いなかったという顛末でした。その後、「私を(下に見て)避ける方」とは距離を置きながら、普通に接しています。私が「餓鬼」に気付いて接し方を改めたからこそ、相手も私を「避ける」ことが少なくなった気がしています。

 「私(我、餓)」が「鬼」だから「餓鬼」。しかし盲点は、自分に限って「餓鬼」であるはずがないという「油断」から「醜い」自分が見えないのかもしれません。無意識に繰り返してしまう、他人から見て醜い「行為、言動」は自分だけでなく、他人も「鬼」に変えてしまいます。私たちの「行為、言動」は必ず自分にも他人にも影響を及ぼします。その結果はブーメラン注3です。一度口に出してしまった他人の悪口や批判は消えませんし、なかったことに出来ません。その不徳(相手に不利益をもたらす行為、言動)はめぐり巡って、自分が悪口を言われたり批判される結果となって戻ってきます。これが誰でも耳にしたことがある「自業自得じごうじとく」という仏教語です。(逆に他人を悪く言うことなく、褒めたり大事にすれば、自分も大事にされる)

 私たちは、他人の「餓鬼」(醜い、卑しい、恐ろしい)には敏感で、すぐ気が付きます。けれども自分の「餓鬼」には鈍感です。というより、気付きたくないのです。言うなれば私たちは誰もが「餓鬼」の一面を持っているのです。まずは自分の「醜い」ところを「認め」なければなりません。醜い感情(貪り、怒り、執着)を「自覚」さえすれば、「捨てる」ことが出来ます。「捨てて」しまいさえすれば、わたしたちは自然に誰かに施さずにはいられないのです。「捨」(手放す)と「施」(誰かに恩恵を与える、優しくする)はセットです。自分から見えにくい「餓鬼(鬼)」は、「かげ」です。「おかげさま」を口にすることは、自らの「餓鬼」に気付かしてくれる呪文かもしれません。

注1 餓鬼
鬼の一種。六道の一つで飢えに苦しむ世界。生前、福徳のない行為を繰り返した者が死後堕ちるとされています。

注2 三毒
私たちの「煩悩」(ぼんのう)を悪い側面から捉えた表現。「貪(とん)、瞋(じん)、痴(ち)」という一旦沸き起こった感情に囚われ、身を滅ぼしていく要素。「貪」とは(満足することなく)欲しがる、求める。「瞋」とは(思い通りにならず)怒る。「痴」とは、自分の(誤った)考えに拘り、周りが見えていない。いずれにしても、「自分」が客観視できず、「自分」を見失った状態。沸き上がった「思い」は良いモノでも悪いモノでも問題ありません。その「思い」に拘り、手放そうとしないことが迷いや不安を生み出す「煩悩」となるのです。逆に常に手放す(捨てる)ことさえ出来れば、「煩悩」は風に舞う「塵」(ちり)のようなモノで「幻」と言えます。

注3 ブーメラン
相手に対して自分が言った批判や悪口が自分自身に当てはまって戻ってくる現象。元々は狩猟やスポーツで使われる棍棒の一種。レジャーとして使われるモノは投げたブーメランが手元に戻ってくることから派生した言葉。

前の記事

令和6年6月法話「戒」