令和6年8月法話「お盆」(盂蘭盆)

盂蘭盆うらぼん

あの頃思い描いた夢も大人になるほど時効になってゆく
ヨルシカ 藍二乗より

 梅雨も明けて酷暑の日々が続きますが、如何お過ごしでしょうか。吉成寺では、8月11日から、檀家さん宅に出向き、棚経(お盆のお参り)が始まります。そこで読経するのは「開甘露門」注1というお経です。

 「開甘露門」は複数のお経を合わせた集合体と言われており、読経の功徳が高いとされています。その冒頭は「破地獄偈」と呼ばれています。「もし、私たちが佛とは何かを知ろうとするなら、私たちの考え方、行為がもたらす結果を包み隠さず、ありのまま認めれば良いのです。自らの行為の因果(いんが)から目を逸らさなければ、安心、不安、悟り(仏)、迷い(魔、煩悩)は私たちのこころから生じていると、自覚できるでしょう。」

 実は恥ずかしい話ですが、私は随分と長い間、「自分は人より頭が良い」と思い込んでいました。この思い込みは、私自身の生い立ち(家族関係)に関わっています。過去の吉成寺HP掲載法話で度々触れてきましたが、私の母親は歪んだ自尊感情で家族を困らせてきました。家族や親族であってもお構いなしに自分の考えの正当性や優位性を常に訴えていました。(今思えば、それが彼女にとっての快楽であったのですが)当時、私は母親の言うことを表向きには認め、進学や就職は彼女の望む進路に進みました。同時に私自身も「自分は他人より賢くて何某高校、何某大学、公務員になっている」と無意識に考えるようになっていたのです。他人との優劣を常に気にして、自分本来のしたいこと、好きなことがわからなくなっていました。「(他人と比べて)自分や家族は優れている、恵まれている。」といった誤った自尊心は知らず知らずのうちに私の「こころ」をすり減らしてゆきました。他人に自分の価値を認めてもらおうと自己主張を繰り返した挙句、私の周りから誰もいなくなっていったのです。「なぜ?自分のどこが悪いのか?」誤った自尊心は自分の間違いを認めようとしません。というか自分の間違いを認めるのが怖くて仕方ないのです。ちっぽけな「自分」にしがみついて、「他人」の欠点を探しては「自分」は「他人」より優れている、そんなどうしようもなく、「自信」がない「(愚かなで)つまらない」私に気が付くには時間がかかりました。自分の誤った自尊心(他人より頭が良い)は母親の誤った自尊心に触れているうちに無意識に刷り込まれているという原因を長年かかって、突き止めました。「自分は思っているほど賢くない(愚かである)」ことを「理解」(自覚)してようやく「因果」のスタートラインに立てている気がしています。そうなんです。「今」の「自分」を「ありのままに」(正しく)理解しようとした時からが「仏教」「禅」をこころから「理解」する出発点なのです。ですから私は、お寺の住職をさせていただいているにも関わらず、「仏教」のスタートラインにすら立てていなかったのです。「法衣」を身に着け、お経を唱えて、「外」から見れば、「お坊さん」。しかし「中身」は「仏教」を知ったかぶりしている「偽善者」。その事実を認めることができたことでようやく、私は、お寺の門前から一歩境内に足を踏み入れた気がしています。

 「(愚かな)自分に自信がない」ことを認めること、受け入れることこそ、自分を信じる「自信」だったのです。どこか、誰かに認めてもらえる「幻」の夢をずっと追い続けていました。そしていつまで経っても叶わない「夢」は、大きくなるにつれ、自分に都合の良い「妥協」として「時効」注3になってゆきました。しかしながら、「今」の自信がない「自分」こそが「現実」(原因)であり、それを認めて一歩一歩歩んでゆく先が「夢(理想)」(結果)なのです。

 「お盆」の由来である「盂蘭盆」は、「逆さ吊の苦しみ」という意味です。「誤った」自尊心(因)は知らず知らずのうちに「感謝」を遠ざけています(果)。「感謝」裏付ける「有難う」(言葉の布施)が言えないのです。「感謝」のない言動(思い通りに生きていて当たり前)はブーメランとなって自分に跳ね返ってきます。「感謝」のない、思い上がっている人を誰が必要とするというのでしょう?

因果注2を晦まして(眼を逸らして、誤魔化して)いたツケは、時間差で必ずやってきます。「自分だけ大丈夫」は、自分に通用しても他人には通用しません。
「今」の自分が生まれてから、どういう経緯で(何を大事と信じて)、この「令和」という時間、空間に立っているか。「正しい」原因と結果さえ自覚できれば、実はそこが人生の出発点であり到達点です。私は、まだ「自分(仏)」を「信じる」入口に入ったに過ぎません。「自分」も「他人」もわからないことばかり。だからこそ「今」を生きて生かされていることは「有難い」(感謝)のです。それが「自覚」できたからこそ、無意識に「有難う」と口に出来るのです。わからない(かげ)ことだらけの人生で「生きて(生かされて)」いるのは、なんて素晴らしい(有難い)ことなのでしょう!「おかげさま」を毎日、口にする(因)ことは、ありきたりの日々(地獄)を有難い日々(極楽)へと突破してくれる(果)「習慣」と私は「信じて」います。

注1 開甘露門
「甘露」の門を開く。「甘露」とは美味しい飲食と法味(教え)を重ねた仏教的表現です。

注2 因果
私たちの行為にはすべて「原因と結果」があります。どんな行為(原因)にも必ず報い(結果)を伴います。

注3 時効
ある出来事が一定期間経過して無効となること。

※ わが愚かさを悲しむ人あり。この人すでに愚者にあらず。自らを知らずして賢しと称するは愚中の愚なり 法句経62章より(自分は人より劣っている、負けていると苦しんでいる、悩んでいる人は、自分と向き合うことができる真の「賢い」人です!)