令和6年9月法話「廻光(返照)」
廻光(返照)
誰かが見ている 必ず照らされる
緑黄色社会 merry go roundより
残暑厳しい日々が続きますが、如何お過ごしでしょうか?
「廻光」(注1)とは「光を廻(めぐ)らし向ける」ことです。
何の光を回らし向けるのでしょうか?
先日、私と同じ島根県内にある同宗派の先輩和尚様とプライベートで話す機会がありました。普段あまり、お付き合いがなかったので、先方からお電話いただいた時、少し驚きましたが、喜んで時間を作りました。先輩和尚様は松江市に位置する、お寺の住職をしている傍ら、動物保護活動をしておられます。お寺の敷地内以外に30キロ以上離れた市外にも保護活動用の借地を私財で借りて、様々な要保護の動物に対する相談やお世話で毎日忙しい様子です。出雲の何某コーヒ-ショップで待ち合わせをして、近況報告など世間話から本題に入っていきました。
要件はと言うと、最近手をかけて面倒を看ていた子猫が行方不明となってから「こころ」が不調とのこと。お寺の町内は勿論、あらゆる考えられる場所を探しても見つからず、果てには大阪から犬猫専門の探偵にも依頼して一週間捜索してもらったようでした。ついに発見に至りませんでした。そのショックは計り知れず、過去経験のないくらい落ち込んでしまい何も手につかない日々が続いて悩んでいると告白されました。以前、私が、こころの病「双極性障害」を患っていたことを思い出され、経験者に意見を聞いてみたかったようです。当然経緯も違いますし、個人差があることを前提に意見交換させて頂きました。
先輩和尚様の行っている、動物保護活動は表向き、自分の利益にならないどころか寧ろ、損ばかりです。活動開始当初は世間からの評価は厳しく、心が折れそうなことが多くあったそうです。それでも捨てられた動物を目の当たりにして放っておくことができなかった先輩和尚様は、お寺のことも、きちんとこなした上で、時間、費用を何とかやり繰りしながら活動を続けられました。すると、少しずつ活動に理解を得られるようになったばかりでなく、葬儀をされた檀家さんから、勤務先の研修で講演を依頼されるようになったり、お寺の活動にもめぐり巡って良い影響が出始めたようでした。
お話の中で先輩和尚様は何度も「(自分から)いろんな余計なモノが剥がれ落ちていく感じ」という言葉を繰り返し口にされていました。捨てられ、行き場のない犬猫を見かけた時、誰でも一瞬は「可哀想」と思うはずです。私の場合も何度か、そういう場面がありました。けれど自分が飼うことも、助けてあげることもできないと(勝手に)決めつけて、見て見ぬふりをしました。先輩和尚様は、「誰か見ているので」という「偽善」ではなく、自分に正直に向き合った結果、助けてあげるという選択をし続けたと思われます。それは敢えて「損得」を「捨てる」という決断の積み重ねだったのではないでしょうか。
私自身も、このお話を聞いている時、同じ感覚になった気がしました。それは私が日々の要(かなめ)にしている「坐禅」「法話」(おかげさま)も、ケースは違いますが、先輩和尚様と同じ「思考」(考え方、決断、選択)のプロセスだと思ったからです。
禅宗寺院の和尚である私が申し上げるのは、本当に恥ずかしいことですが、禅宗の看板を掲げながら、「住職」という「職業」(生活の糧を得る仕事)に甘んじてきました。言うなれば、「坐禅」「法話」という、「お金にならないこと」(損)より「葬儀」「法事」の「お布施」という「お金になること」(得)を無意識に優先(選択)してきたのです。
しかしながら、京都の修行道場で老大師(師匠)から言われた「我々は住職という職業に就いているのではない。禅を実践する生き様を人に示していく住持である」という言葉が頭から離れませんでした。私の勝手な推測ですが、「こころの病」を患ったのも、自分の中にある「本物の衝動」に蓋をしてきた結果、精神が分離したことが原因ではないかと考えています。ですから「無意識」を「意識化」するため、損得勘定を「捨てて」今日まで「坐禅」「法話」を実行(実践)してきたのです。
世間や他人はどうであれ、自分が本当にしたい「衝動」こそ、私は本物の「主体性」と考えます。その主体性は言い換えれば「仏(性)」「いのち」と言えます。自分にしかできないオリジナルの行動や言葉は、必ず誰かの「こころ」に響きます。
先輩和尚様は動物保護活動に向かっている道中は「自分が浄化されている実感がする」とも言われました。「余計なモノ」とは「損得勘定」に毎日晒されて生じる、汚れた思い(感情)ではないでしょうか。私自身、「坐禅」「法話」を実践しながらも、常に「損得勘定」は虎視眈々と付け入る隙を伺っています。しかし一見「損」と思われてしまう自分の「本物の衝動」(仏性、主体性)こそ、「智慧の光」と考えます。「智慧の光」を曇らさないように磨き続ける日々の実践が「仏道」(修行)であり、死ぬまで終わることはありません。言い換えれば常に新鮮な感動を与えられるのです。損得勘定や優劣(他人との比較)といった余計なモノを取り払い、自分にとって本当にしたいこと、すべきことに正直になった言動は自他ともに偽りがなく、誰かを感動させるモノです。つまり、自然に(意識せずとも)周りを動かしていくのです。先輩和尚様の悩みをお聞きして楽になられたかどうかは、私には知る由もありません。しかし、互いに「こころ」は傷だらけで倒れそうになりながらも、必死に日々の暮らしを戦い続ける姿は戦友といって良いかもしれません。
「損得勘定」という自らの内なる「敵」に負けた、自己満足の言動では誰も振り返りません。「自分」に「正直」であることは、常に「自分」との「戦い」です。他人には表向き理解されません。けれども目に見えない(かげ)ところで確実に、どこかに伝わります。そうです。誰が見ていなくても自分だけは見ているのです。「おかげさま」を続けることは日々、自分との「戦い」ほかなりません。ご精進、ご精進。
(注1) 廻光返照
私たちに内在する佛の智慧(生まれたままの素直な考え、思い)を他に廻らせて、自分自身の光(智慧の)によって自らが照らされること。
(参考)回向(えこう)
自らが為した功徳(自他ともに利益がある)を他に振り向けること。言い換えれば、「徳」を独り占めしない。出し惜しみしないこと。
※ 法句経103章より 戦場において数千の敵に勝つよりも、自己に勝つ者こそ、最上の戦士なり
他者との優劣を競い合っている、つまり他者しか見ようとしない者は、いつまで経っても大成することはありません。自分本来のスペック(能力、特性など)を探求しようと、自分に目を向け続け、自分が見える者こそ、人生の勝者です。