令和6年10月法話「廓然無聖」
廓然無聖
我々は奴隷であるのだ
マトリックス より
少しずつ暑さも和らいできて秋の気配を感じるようになりましたが、如何お過ごしでしょうか?
10月5日は禅宗の初祖、達磨大師のご命日です。
達磨大師と武帝(中国、梁時代)との問答、達磨「無功徳」は以前(2022年10月HP法話)触れさせていただきました。「廓然無聖」(注1)の問答はその続編です。武帝「聖諦第一義」(世の中の誰にとっても大事な教えとは?)に対する達磨大師の返答です。
ある初夏の土曜坐禅会が終わった時のことです。参加されていた坐禅2年目の方にその日の坐禅会の感想を伺ってみたところ、こんなことをおっしゃいました。「鳥の鳴き声が、よく聞こえてきました。」一見、何もない返答に聞こえますが、その時私はある意味衝撃を感じたことを覚えています。「さっき坐禅をしていたつもりだったのに、自分は何の妄想(不安、迷い)をしていたのだろう?」と思わせられたからです。
どういうことだと思いますか?「坐禅」は「本来の自分」に気付く為の一つの「手段」です。「本来の自分」を仏教、禅では「仏(性)」と呼びます。または「いのち」とも「本来の主体性」と言い換えることも出来ます。私たちは究極的には何者でもなく、何一つ持っていません。それは無力、無能というわけではなく、「こころ」が身軽であるからこそ、常にその場に応じて適切に対応でき、「自他ともに輝きを与えられる」自分の「いのち」(仏性、主体性)を、はたらかせることが出来るのです。つまり私たちは自らが時間の経過とともに身に着けてしまった余計な意識や感情で「こころ」が一杯であるがゆえに、不安で迷ってしまいます。「こころ」が余計な思いで満たされ、渋滞を起こしているのです。ですから自分の意志で「余計な」意識や感情に自分で気づき、「捨てる」必要があると思うのです。「外」の世界は元々「ありのまま」であるのに、「内」(私たちのこころ:思考、意識、感情といった脳作用)が「歪めて」見せています。その為に、すべきことを躊躇したり、逆にすべきではないことを遠慮なくしたりしてしまいます。
「鳥の鳴き声」は先週も今週も常に「外」にありました。でも「こころ」が「迷い」で一杯の時には「外」で何が起ころうが、気付きすらしない、否できないのです。ですから「余計なモノ(感情、思い)」は常に「捨てて」こころにスペース(空き容量)を保つ工夫が必要である気がします。私たちは「余裕」があれば、どんな「外」の世界も「そのまま、ありのまま」に受け入れることができます。私はその日、鳥の鳴き声に気付くことすらありませんでした。坐禅中、自分でも気づかないうちに「姿勢」と「呼吸」に集中しているつもりで、別のことを「妄想」していたに違いないのです。
私たちが見ている(感じている)「外の」世界は、本来何もなく(無聖)、ただありのままの「世界」(廓然)なのです。しかしながら知らず知らずのうちに、あたかも「外」の世界が私たち自身とは違ったところにあるように錯覚して何らかの価値や意味があると「脳」に誤作動をさせられて暮らしています。私たちは自分の感覚(脳の作用)に依存していると言えます。つまり自らの「感覚」(感情)の「奴隷」として暮らしてしまっていることに気付きすらしていないのです。なぜ生まれて、「今」生きているのか?生きていくことが何故、こんなにも苦しいのか(楽しいのか)その根本的な原因は実は誰もわかりません。もっと言えば「わからない」ことこそ「生きている」ことなのかもしれません。ですが私たちは、「わからない」ことが苦痛で、「わかった」ふり(知ったかぶり)に慣れてしまっていると考えます。本当は「わからない」のに、かりそめの「安心」を得ようと「余計な」ことで「こころ」を一杯にしてしまっています。その結果、世の中を自分の都合で歪めて見ています。私たちが見たり聞いたりしている世界は世界(外)のありのままではなく、自分(内)のありのままなのです。自分が見ている世界、聞いた世界が正しく、すべてであるという幻想(妄想)に気付かないまま、その勘違い(矛盾)に向かって今日も「そんなことくらい、わかっている」と「脳」に騙され続けています。
「今」を真剣に生きていくことは、自分勝手な先入観、固定観念といった自らの「脳」が見せる自分(過去)を越えて(手放す、捨てる)いくこと(未来)と理解しています。
「わかっている」つもりで本当は何も「わかっていない」自分。自分の発する言葉や行動に対するブレーキやアクセルすら自分で十分制御できていないのが、私たちなのです。恥ずかしながら、私も余計な一言を口にして、後悔を繰り返す毎日です。
自分(の脳)に、繰り返し、「自分は自分のことをわかっていないし、何もない」と言い聞かせないと、私自身、自らの脳が描き出す世界に引き回され、騙されてしまいます。皮肉なことに自分の「自由」(主体性)を「不自由」(客体)にしているのは、他ならない「自分」(の脳作用)なのです。自分が自分(感覚や感情)の「奴隷」になる前に、先手を打つのが「おかげさま」を積み重ね、「脳」に記憶させることかもしれません。しつこいようですが、もう一度申し上げます。外の世界(世の中、世間、他人)に価値を与えているのは、私たち自身(自分)です。こころから嫌ならやめれば良いし、好きなら続けて良いのです。
注1 廓然無聖
廓然とは(晴れて、雲一つない澄み切った青空のように)こころが広くさっぱりとした様子。無聖とは、凡も聖もなく、捨てるものも、求むべきものもない意味。自分本来の「こころ」に気付けば、自分と他(世間)の区別など自分が描き出したモノであり、与えられた現実を自他ともに生かすことが日々の使命となると思っております。余計な思いを手放して、抱え込まなければ、身軽で自由な「はたらき」が出来ます。