令和6年11月法話「報恩謝徳」
報恩謝徳
私ってそう 仕方ない程 自分よがり
ケセラセラ Mr. green apple
少しずつ風も涼しく感じるようになりました。気づけば本年も二ヶ月を残すところになりましたが、如何お過ごしでしょうか。「報恩謝徳」とは、吉成寺の本山、臨済宗妙心寺の起源とも言える言葉です。
(詳しくは昨年度11月のHP掲載法話をご覧ください。)
「恩」に報いて「徳」に謝す。「恩」とは国語辞典では「めぐみ」の意ですが、仏教的には、私たちが「今」生きて(生かされる)いる原因(因)を深く知る心(因+心)と言えるかと思います。深く知れば(気付けば)、感謝しかなく、恩返しせずにはいられない。私たちはすでに恵まれているという事実を表しています。
突然ですが、皆様は「猫」はお好きですか?6年前に離婚してから一人暮らしの私は基本、「寂しい」毎日を送っています。その頃、お寺の庭先に迷い込んだ一匹の「猫」さんがいました。寂しさを紛らわすのにはお誂え向きの、その「猫」さんに、せっせとキャットフードを買ってきては与えていました。野良猫なので警戒心があるのは当然ですが、随分ご飯を与えた期間が長くなったにも関わらず、全然撫でさせてくれないのです。ご飯をあげて撫でようとして撫でさせてくれなかった時、実は度々イライラして大きな声を出して怒ったり、ご飯を「おあずけ」することもありました。キャットフードも、有料ですので、無意識に「これだけ、お金をかけたのだから、撫でさせて(思い通りにさせて)くれて当たり前」と損得勘定で、「猫」さんに接していたのです。
気づけば、その「猫」さんは、私の元を去っていきました。「(当時勝手に「何某」と名前まで付けていましたが)お前まで私を見捨てるか・・・」その前後から私は「坐禅会」とお寺のHP掲載法話を始め、「寂しい」自分に向き合うことを決めました。「姿勢」と「呼吸」を調えて「自分」に向き合い続けた結果、気付き始めたのは、「自分」の思考(考え方、選択)が「浅い」ことでした。「浅い」を言い換えるなら、「独りよがり」「自己満足」といったところでしょうか?
自分の見方、考え方が「深く」なれば、自然に「感謝」につながる気がします。「深い」とは「目の前」の現実(今)を軽く見ない(侮らない)ことと私自身は考えています。「目の前」の現実とは、常に「私」と「相手」の一対一であるということです。「相手」は「猫」さんに限りません。「今」相対している「他人」、「家族」、「仕事」、「遊び」などに真剣に向き合っていたか。自分勝手な「はからい」(損得勘定)で相手に接していなかったか?私個人に限って言えば、常に「費用対効果」と称して「出し惜しみ」ばかりしていた気がします。誰もわからないはずの未来を自分勝手な「損得勘定」で「相手」を推し量り、どれだけ軽く(浅く)見ていたか思い知らされました。今日一日を「生きて」(生かされて)いることこそ、「有難い」ことに違いありません。ちなみに「報恩謝徳」を英訳するとdeep gratitude(深い感謝)です。
「損得勘定」(独りよがり)という浅はかな「自分」に気付いた、「自分」を「本来の自分」と考えます。「報恩謝徳」の「徳」は原意からすれば、「人」+「直」+「心」です。つまり他の誰でもない「自分」の「こころ」が真っ直ぐであるか、「自分」で確認するだけなのです。独りよがりの自分に埋もれている「仏心」(生まれたままの素直な、はからいがない心)を見失わないように、「目の前」の現実を、自分の選り好み(損得勘定)で判断しないことです。私自身、「坐禅」(姿勢と呼吸)で自分に「素直に」(正直)になりつつある「今」は「猫」に対しても家族や他人に対しても自分の「思い」(選り好み、はからい)を押し付けることが少なくなりました。「相手」にも「思い」や「立場」がある以上、それを邪魔しない程度の「距離感」で接することの大事さを実感しています。
不思議なことに最近、一匹の猫さんが、お寺に迷い込んで来ました。今度は以前と違って自分よがりに可愛いがるのではなく、猫さんに求められるままに接しています。すると居心地が良いのでしょうか。十分撫でさせてくれます。私を選んで迷い込んでくれた猫に感謝しています。残念ながら私自身は、未だに自分の言動を十分にコントロールしているとは言い難いので時折、相手(猫を含む他人)の気分を損なう言葉や行為を発してしまうのですが・・・
しかし私の身の回りを見渡すと、自分の言動を一方的に押し付けて満足している方が多いのも事実です。最近、お世話した会食などで、私が立て替えて飲食代を払ったにも関わらず、その代金を出さない方、後日払うといった方が続いて、がっかりしたことがありました。しかも私より先輩や年長者の方々なのです。反面教師として私は、「損得勘定」(出し惜しみ)を捨てて会食時の代金は相手に負担をかけないように、細心の注意を払っています。なぜなら私自身が「お金」に関する相手の対応に、その方の「感謝がない、言葉だけの浅い(独りよがりの)人間性」を感じてしまうからです。
「損得勘定」という卑しい「はからい」が実は「感謝」を一番遠ざけています。「感謝」を言葉だけでなく行為として実践できている人は基本「太っ腹」である気がします。過去の私も「損得勘定」でこころが一杯で「出し惜しみ」ばかりしていました。そういう「器の小さい」人の元には誰も寄ってきません。自分が必要とされていないのは自分に「感謝」が足りないと気づいたのです。最近は、呼ばれた仕事やプライベートの用事は大概断らず、遠方でも忙しくてもできるだけ時間もお金も出し惜しみしなくなりました。結果、全国各地から私に声をかけてくださる「ご縁」が増えました。不思議なことに、かけた「時間」や「お金」は私を必要とする「ご縁」によって再生産され戻ってくるばかりか、それ以上の価値に変換されています。
報恩は「実行」(実践)で、謝徳は、「今」を感謝できる「こころ」(真っ直ぐ、素直)です。報恩と謝徳はセットです。感謝がなければ(こころが真っ直ぐでなく、歪んでいれば)実行に至りません。しかし実行(おかげさま)から始めても、感謝を育むことができる気がします。いずれにせよ浅い(独りよがり)自分から目を逸らさないこと。大丈夫、自分も他人も基本、「独りよがり」なのですから。
※注 報恩謝徳
大胆に意訳すれば、「生きて(生かされて)いること自体、様々な「ご縁」(恩)に支えられています。こころから「有難い」と思い知ったなら(深い感謝に至ったなら)、「恩返し」せずにはいられません。」ということ。
思いついた時、誰かが見ている時などではなく、常に「こころ」が「誰か、何かの役に立ちたい」と「感謝」を行動(形)で示す衝動に駆られていることです。「感謝」は「恩返し」(報恩)という「実践」(実行)の「裏付け」がないと誰にも伝わらず、自己満足(独りよがり)の「無意味」なモノとなってしまうのです。「おかげさま」「有難う」は誰かに伝えて初めて価値(意味)が生じます。ちなみに「おかげさま」「有難う」を口にすることは、言葉のお布施です。「こころ」がこもった言葉なら、誰かの「こころ」に届き、意識せずとも自分が必要とされる(求められる)ことに繋がります。