令和6年12月法話「成道会」
成道会
傷つくことから逃げているだけで本当は ただ信じたいんだ
yoasobi モノトーン より
本年もいよいよ残すところ一月を切りました。公私ともに忙しい日々をお過ごしと存じますが如何お過ごしでしょうか。12月8日はお釈迦様がお悟りを開かれたご縁日「成道会」です。
成道とは、その言葉が表す通り、「道を成す」つまり「(信じられる、歩むべき)道を築き上げた」ことです。お釈迦様がお悟りを開かれたことは、自らの「こころ」を突き詰めた結果、自他ともに当てはまる「こころ」の法則(四諦八正道:注1)を発見されたことを意味します。大事なのは、お悟りを開かれたことがゴールではなく、スタートであると考えます。
(「こころ」の法則に従って「生きていくこと」が目的)
吉成寺HP掲載法話を始めて3年が経過しようとしています。毎月掲載させていだきましたので回数として36回になりました。内容は全然大したことなどないのですが、始めようと決意してから3年以上継続できたことには、私なりの「道」を築くことが出来た気がしています。その源(原因)は「信じる」(何をどうやって)ことでした。
実は法話について、長い間、勘違い(思い込み)をしていました。(読者の皆様も、もしかするとそうかもしれませんが)「法話」はその文字が表す通り「法」(教え、導き)の話です。私たち僧侶(お坊さん、和尚さん)が衣を身に着けてたくさんの人たち前でするイメージでした。ですから、どこか他人行儀で堅苦しいという勝手な先入観があったのです。私自身、吉成寺の本山妙心寺で実施されていた「高等布教講習会」にも長年参加していて、本山公認の「布教師」になることを目指していました。しかし6年前に参加した結果「不適任」となったことを最後に参加しなくなりました。なぜなら気が付いたのです。「法話」の対機(相手、聴く人)は他人ではなく「自分」であったことに。
衣を身に着け、本山公認というステ-タス(地位、身分)に執着していましたが、どこか違和感がありました。分かりやすく申し上げるなら法話が「楽しく」ないのです。私個人に限って言えば、出家の原点を見失っていたと言えます。衣を身に着けているから、他人が望むから法話をするわけでなく、自分に向けて法(教え)に説いているかどうかということです。なぜなら「僧侶」は出家し、「修行」している人なのですから。他人や世間がどうであれ、「法)」つまり教えを信じて「修行」(実践)を続け積み重ねることです。HP掲載法話は、私自身が仏教を自分に説き続けていたことを意味します。不思議なことに、いつの間にか他人や世間はあまり気にならなくなっていました。何より法話(修行)が「楽しい」のです。
「道」を(頭で)知っていることと、(実際に)歩むことは別です。法話(坐禅も)を知っていても、実際に行わなければ、「修行」にはならないのです。私自身この簡単すぎる事実をこころから理解するのに長い時間を要しました。信じたいのに信じられなかったのです。仏教(禅)を「信じる」ことは、「痛み」を伴います。思い通りにならない(苦しい)ことを自分の「こころ」で分析しなければならないからです。傷つく(痛い)のが嫌で、ずっと現実から目を逸らしていました。でもある時、気付きました。今、直面している現実は自分そのものであることに。生まれてから今日まで、何を信じて来たのか。数えきれない自らの選択、決断による積み重ねの結果が「今」、与えられた「現実」なのです。親のせいでも、社会のせいでもありません。自分の選択、決断によるモノなのです。これが「自業自得」(じごうじとく)の本体です。現実から目を逸らすことは自分から目を逸らすことです。現実が思い通りにならない(苦しい、辛い)のは、自分が思い通りになってないのです。自分が何を「信じて」生きているのか。案外、何も信じていないからこそ、他人や世間に流されて自分を見失っていることが苦しいのかもしれません。
傷だらけでボロボロになってもいい!それでも自分を信じたいんだ!空っぽでいい、何もなくても、どんな立場や、どんな時でも「生きて」いく、ただそれだけでした。それはお釈迦様がお悟りを開かれた後の「お姿」出山図(しゅっさんず)そのものではないでしょうか。衣はボロボロで髪も髭も伸び放題、でも清々しく神々しい。言うなれば、自分でこころを傷つけない限り、本当のこころ(道)には辿り着けないのです。それは他人から傷つけられるのではなく、自分の意志で自らの記憶や思いで固められている余計な感情に傷をつけて、本来の「こころ」(道)を発掘することと考えます。スクラップ&ビルド(破壊と創造)で「こころ」を再生するとも言えるでしょう。
私自身は世間や他人に傷つけられる前に、先回りをして、少し痛みを伴う「法話」(坐禅)を積み重ね、自分に向き合っています。結構「こころ」は傷だらけですが、すっきりとしています。「苦しみ」から逃げても「苦しみ」はついて回ります。苦しくない人生などないのです。しかし「苦しみ」を「知って」(逃げていない)いることが「仏教」を信じることであると私は「信じて」います。本年もおかげさまでした。
注1 四諦八正道
お釈迦様が発見された「こころ」の法則とは、誰もが「苦しみ」から目を逸らしてしまうという至って簡単な事実でした。そして「苦しみ」を乗り越えるためのプロセス(1苦2集3滅4道)が仏教と言えます。「苦しみ」には原因があり、乗り越えるという「結果」を得るために「道」(八正道)があります。その「道」を「実践」(修行)すると「苦しみ」が気にならなくなるというものと言えます。いずれにせよ2500年前から「人生は苦しく辛い」モノで、乗り越えるには「修行」(実践)しかないのです。言われれば分かる一番大事な真実が目の前にあるのに、つい私たちは(偽りの)自分に拘って(執着して)しまうのです。
「成道」の意味する「道」は言わば「公道」と考えます。自他ともに歩んでいける「道」です。自分勝手にできる「私道」ではないのです。私たちが「信じて」行っている言動の後ろに「道」が出来ていきます。その道は他人が通っても安全ですか?自分専用ではないしょうか?