令和7年1月法話「修正」
修正
世界なんて元々狂ってるんだし
新海誠監督 天気の子 より
今、出来ることをしておかないと、そのツケを自分で払うことになるぜ!
「今」、すべきこと、出来ること(軌道)は「今」しかありません。誰でも出来る、いつでも出来るからと先延ばしして、(軌道)から外れていませんか?
過去から現在まで、自分のすべき「今」(軌道)とどう向き合ってきたのか?疎かにしていたか、大切にしていたのか?自分が辿り着いた「今」(現在)は自分の選択、決断してきた言動、行為(自業)の報い(代償)を自分で受けた結果(自得)であり、自業自得のど真ん中にいるのです。軌道から外れたら元に戻す(修正)の繰り返しこそが「人生」!間違い(狂って)ばかりの、この世界で、自分を修正できるのは自分だけです。
謹んで新年のご挨拶を申し上げます。本年も未熟者の拙い呟きにお付き合いいただきますようどうぞ宜しくお願い致します。本年から文字数を減らして、活字アレルギーの方々(実は私もですが)にも、御覧いただけるよう勝手に工夫してみました。文字を読むのが苦手な方は、冒頭の言葉だけ目を通していただき、添付画像(写真)をお楽しみ下さい。気になられたら後述の補足説明をお読みください。表題の「修正」とは禅宗寺院が正月三ヶ日お勤めする「修正会」に基づいています。
「修正」とは、国語辞典では「不充分な部分を改めて正す」と表記されています。一般的に「軌道修正」という言葉は比較的理解しやすい言葉ではないかと思っています。「物事の進むべき方向のズレを正すこと」原意は電車などレールを用いて走る「道」を「軌道」と言い、電車が安全に走行できるようレールのズレや破損を直す(正す)ことです。
私たちは道具やモノの不具合(ズレ、歪み、狂い)には、すぐ気が付きます。上手く作動していないと違和感があるからです。放置できない時は適切に修理(修正)して元の状態に戻します。
私たち自身はどうでしょうか?自分に不具合(ズレ、歪み、狂い)はないでしょうか?他人や他(道具など)の不具合に気付いても、自分の不具合には気づかない(気づきたくない)モノです。
しかしながら、「不具合」という「自覚」がなければ、「修正」しようがありません。このことは人生全般に言える事実です。修正する「力」(源)があるのに関わらず、「今」を疎かにしてしまう「一呼吸」(一瞬)の積み重ねで、自分が「歪んでいる」ことにすら気付かなくなるのです。自分が自分で間違いや誤りを修正できるようになることが「仏教」(薬)ですが、そもそも自分が「歪んでいる」という症状(病状)に気付けなければ、どんな良い教え(薬)でも効能はありません。
私たちは皆「自分が正しい」という本能を有しています。「こころ」を常に「安定」させるため「脳」が防本能を作動させているのです。「間違い、誤り」を起こしても「自己正当化」で現実を歪めてしまう習性があります。「修正」とは「習性」に気付き、「修正」することと考えます。つまり無意識(習性、癖)の自分を意識化しないと「修正」できないのです。ひとまず、他人よりも自分が「歪んでいる習性」を自覚。
大胆に言い切ってしまえば、仏教や禅の「教え」は、「他人軸」から「自分軸」に考えを修正して「今」に向かい続けることであり、「修正」の繰り返しこそが人生であると強く伝えているモノと考えます。
私たちは必ず「間違い(誤り)」があるのです。どんな偉い人でも偉くない人でも大人でも子供でも男性でも女性でも「間違い(誤り)」を起こさない人は誰一人いません。違いが生じる(天才と凡才、聖人と俗人など)のは「間違い(誤り)」を「修正」できるかどうかだけです。
自分が「今」できる(すべきこと)を自分の「軌道」とするなら、その「軌道」は実ははっきりとしています。「今」できることを先延ばし、見て見ぬふりをしてやり過ごした瞬間から「歪み」が生じているのです。
私自身大いに遅ればせながら「禅宗僧侶」として「今」すべきことは「坐禅」であり「法話」であり「今」の「一呼吸」の言動であることに気づかされました。禅宗僧侶にも関わらず、葬儀や法事のお布施を求めるばかりで、何の「法施」(教えつまり他人を安心させる施し)もしてこなかった私は「軌道」から大きく外れて、地獄行きまっしぐらですが、途中で自分の間違いに気づき、「軌道修正」を余儀なくされているのです。
そう言えば京都の修行道場で老大師(師匠)から耳にタコができるくらい聞かされた言葉があります。「お布施をいただくことは、本当に恐ろしいことだ。お布施に見合った法施ができないと我々(僧侶)は一人残らず地獄行きなのだから」当時はあまりピンと来ませんでした。しかし今なら少し理解できます。檀信徒の方々からの「お布施」は私たち僧侶(和尚さん、お坊さん)が「修行」によって身に着けた教え(法)を「布施」する対価としてお預かりするモノなのですから。私たちが「修行」を怠り、「儀式」という「形」だけで「中身」のない(修行に裏付けされた教えがない)葬儀、法事を続けたとします。その先に待っているのは、衣を身に着けただけの偽善者は必要とされず「お布施」されなくなる地獄のような未来です。ですがこれも軌道修正できるのにしなかった自業自得。
「今」からでも遅いことはありません。「生きている」うちに自分の「間違い、誤り」(勘違い)に気付くだけで、大きな「修正」なのです。世界は自分も他人も自分を偽ってばかりの「狂って」いるモノなのですから。
五戒
仏教(禅)を実践する(信じる)人が、自発的に守るべき五つの戒め。第一不殺生戒(殺さない)第二不偸盗戒(盗まない)第三不邪淫戒(乱さない)第四不妄語戒(嘘をつかない)第五不飲酒戒(見失わない)
どれも言われれば「当たり前」なことですが、その「当たり前」さえ守ることが難しいことに、私たちはなかなか気付ないのです。上記五つは仏教の基本原理、三法印「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」をこころ(頭)だけでなく身体で実践する上での約束のようなモノと個人的には考えています。特に第一不殺生戒(殺さない)は自他ともに「生かす」(活かす)ことが主眼と考えています。与えられた「人生」とは、時間の経過共に自他ともに変化(老化)を繰り返し、いつか終わりを迎える(諸行無常)。そして自他の支え合い、繋がりの中でしか生きていけない(諸法無我)。その事実を誤魔化さずに向き合ったときに初めて人生の意味がわかる(涅槃寂静)つまり時間も空間も無駄にせず(殺さず)生かしていく。その為には何も持たずに生まれ、何も持たずに死を迎えるのだから、本来「自分にモノ」は何もない、盗むことができない(不偸盗戒)、自他との支えあいの「ご縁」を乱すことができない(不邪淫戒)、当然嘘もつけない(不妄語戒)、現実から目を逸らさない(不飲酒戒)ことが必要不可欠なのです。