令和7年2月法話「自灯明」
自灯明
目に見えぬ僕はいわば準透明だ
ヨルシカ 準透明少年より
お前、居ても居なくても、変わんないよ
「自灯明」の「自」は、肩書きや外見に惑わされない「自分」。本来の「自分」はどこにいても「自由自在」。「自由」とは「本当に好きなこと」に気付いた「自分」が他人や世間に惑わされながらも、「好き」を貫き続けることです。そんな「自分」は自分にとっても他人にとっても魅力的(自他を照らす灯明)!

逆に自分の「好きなこと」すら、分からず、他(肩書や外見など)に振り回されている人は居ても居なくても変わらない「不自由」な人。
禅問答で「父母未生以前本来の面目」(ふぼみしょういぜんほんらいのめんもく)という言葉があります。両親や祖父母といった「いのち」(こころ)の元となる人々が生まれる前の本来の「自分」とは?つまり自分からすべて(肩書、役割、名前などの外見)を取っ払った先に残る大事なことです。
私は(禅宗寺院)吉成寺の住職(お寺の和尚さん)という「肩書」があります。
「狩野直樹」という「個人名」もあります。それらに依存しない「自分」とは?

生まれ(家系や父母など)は選べませんが、「生き方」は選べます。
吉成寺の住職は、私でなければならないということは特にありません。「縁」に従って「仮に」住職をさせていただいているだけです。お葬式と法事といった「儀式」は極端な話、「僧侶」であるなら誰でも出来ます。「肩書き」や「儀式」といった「形」の継承は「私」の代わりはいくらでもいるのです。
では私たちの「生きている意味」とは何でしょうか? 結論から申し上げますと、自分が決める(見つける)のです。他(他人)から自分の「生きている意味」を決めてもらうのではなく、飽くまで「自分」で決断、選択するのです。

皆様(他人)はどうかわかりませんが、私自身は長い間、自分の好きなこと、したいことすらわかりませんでした。30歳手前で出家して禅宗僧侶へと転向してみたものの、僧侶(お坊さん)がすべきこととは何か? それを深く理解してない状態が続いた気がします。いわゆるモラトリアムでした。自分の中で自分の行っている言動にしっくりこなかったのです。
私は居ても居なくても変わらない、無用な存在であったような気がします。言わば、そこに居るにも関わらず、誰からも必要とされない(見えていない)半(準)透明な人間でした。仕事をする人の代わりは居ますが、その人の代わりは居ません。私は思い通りにならない辛く、苦しい経験を「坐禅」と「法話」で反芻(はんすう)しながら、向き合い続けた結果、ある時気付きました。
世間や他人(家族を含む)を気にしすぎていた「自分」に。評価や忖度を優先している小さい「自分」が自分の行為や言動まで縛っていた事実に。誰かの借り物である価値観、借り物の言葉で無意識に自分を偽っていました。
私は「禅宗僧侶」や「狩野直樹」以前に自由自在な一人の「私」だったのです。長い時間をかけて「要領」(手際や立ち回り)を身に着けて、それが自分にとってベストな考え方、生き方だと自分で自分を縛っていました。本来の自分(素直なこころ)の先に職業や役割、名前が必要なのです。

もし、「今」生きている意味や価値がわからないのなら、これまで(過去)自分の信じて来たモノが他(他人)に頼って(依存して)きて、本来の自分を見失っているからだけだと考えます。私たちは「一人」で生きていけるのです。本当の意味で「自立」した時に、初めて「一人」で生きているのではないという大事なことに気が付くのです。
私は「生きている」実感がほしかったと思います。出家前の公務員時代、出家後の「今」も常に、「自分」が「自分」らしく、生きていたい。それは「好きなこと」をしていたい、ということでした。「仕事」だから仕方ない、「親」だから仕方ない、「子供」だから仕方ない、「仕方ない」という自己満足で「好きなこと」を封印したくない。しかしながらもっと嫌なことは「好きなこと」さえも、よくわからないまま、「死んだように」生きていたくない。ただそれだけでした。「自分」を誰かに気付いてもらい、必要とされたかった。

そもそも私は「坐禅」(法話)が好きです。理屈ではないのですが、敢えて言葉にするなら「こころ」に触れている気がするのです。掴むことができない「こころ」を姿勢と呼吸に集中して「意識化」する。そして「法話」によってその「こころ」を「言語化」する。そのトライアルアンドエラ-(試行錯誤)で「こころ」をより具体的にイメージ化していくのです。言い換えれば分かっているつもりで分かっていない「自分」を分析、理解(知る)してゆく。「好きなこと」がわからなかったのは、「好きなこと」がない、のではなく、自らが生み出した余計な感情や思いに遮られて、見えなかっただけなのです。
好きなことを「生き生き」としている「自分」こそ、肩書や外見、名前という「衣」に囚われない、本来の「自分」と考えています。好きでもないことを周りの評価を気にしてびくびくしながら「嫌々」「仕方なく」していた時の自分を思い出すと、なんと窮屈な世界に自分を閉じ込めていたのだろうと我ながら失笑します。しかしながら「好きなこと」を続けていくのは「楽しい」だけではありません。むしろ「苦しい、辛い」ことの方が多い気がします。それでも「好きでないこと」を偽りながら続け、一時的な「楽しさ」があったとしても長続きしません。私は同じするなら「好きなこと」を選択し、「苦しさ」を乗り越えた先に見える風景(世界)の方が刺激的であることを知りました。何より限りある人生で「好きなこと」を選択し実行した結果、後悔したとしても、実行しなかったときの後悔よりも意味があると私自身は強く思っているのです。
そして一人でも、私の「好きなこと」に興味を感じて、何かしら良い影響を与えることができたなら、それが「自分」も「他人」も照らすことができる「灯明」と考えています。いずれにしても「自分」にしかできないオリジナルの「好き」がなければ、他人を救う(照らす)どころか、自分さえも救う(照らす)ことができません。

大丈夫ですか? 自分のことがわからないままで。他人や世間の声など、自分本来の「好き」に気付けば、自分が選択した世界の「背景」やバックグラウンドミュージックと言える「ノイズ」(雑音)となります。気にしなければ(反応しなければ)良いのです。(私自身は、修行が足りていないので、すぐに反応しがちですが・・・)
