令和7年3月法話「彼岸」
彼岸
今の自分(地獄)が地獄だと気づけないことが地獄なんだぜ!
お前、自分で墓穴を掘っていることに気付いてねえのか!?
誰かに必要とされているなら「彼岸」(極楽)、本当は必要とされていないのに
必要とされているはずだという自分勝手な思い込みが「此岸」(地獄)

この世は極楽ですか?
それとも地獄ですか?
どちらでもないでしょうか?
今の自分に引き当てて考えてみてください。

禅宗では毎日のように「般若心経」をお唱えします。「魔訶般若波羅蜜多心経」、私たち誰もが「こころ」の内に備えている、本物の「智慧」(般若はんにゃ)で此岸(現実、地獄)から彼岸(理想、極楽)に渡る(波羅蜜多はらみた)中心の教えです。
私は「吉成寺」というお寺をお預かりする「ご縁」が廻ってきた20数年前に、自分の意志で出家を選択しました。実際に住職を拝命してみて初めて、吉成寺は檀家数も少なく、経済的に苦しい状況であることが分かりました。そして住職を続けていく中で様々な葛藤(苦悩)が生まれてゆきました。(主として経済的なことですが)檀家数が多く、裕福なお寺が羨ましかったり、後継者が必要なので、結婚をして子供を求めたり、吉成寺の収入だけでは生計が立てられないので、別の仕事を兼業してみたりと。しかしながら、心のどこかで全体的にしっくりと来ていませんでした。なぜなら、京都の修行道場時代、散々教えられたのは、「出家(しゅっけ)の本分を全うすること」だったのです。
「僧侶」(和尚さん、お坊さん)の本分(本来すべき勤め、役割)はいつも「修行」していること。言い換えれば「自分」に向き合い。「今」を疎かにしないことです。僧侶の私がすべきことは、経済的なこと(お金、すなわち食べていくこと)以上に、「坐禅」(今の姿勢と呼吸に集中)を怠らず、「今」の本当の役割を誤魔化さない。お金があるから「生きている」のではなく、自分の役割(本分)を全うするためにお金が必要なのです。目先のこと(経済的なこと)に振り回され、お金の奴隷であった自分にしっくり来ていなかったことが最近ようやく分かりました。経済的に苦しい(お金がない)ことが「地獄」ではなく、お金がないと生きていけないと思い込んでいたことが「地獄」だったのです。それに気づいてからは、吉成寺という裕福でないお寺に「ご縁」があったからこそ、「出家の本分」に近づいているのだと勝手に「極楽」気分です。つまり、私自身に生まれつき備わっていた「智慧」(般若)が発動して、本分の中に経済があることを理解し始めたのです。
「幸せ」になりたいと願うのは、たぶん私も皆さまも、同じであると考えます。しかしながら「幸せ」という世界が、それ単独で(切り離されて)あるわけではありません。どこまでいっても「不幸せ」(此岸)の土台上に「幸せ」(彼岸)があるのです。禍福は糾える縄の如し。私自身もかつて、「今」(の不幸な世界)から逃れたい、いつか自分の思い通りになる日(未来)が来るはずだ、と勝手に考えていました。不幸から逃げれば幸福も逃げていきます。不幸に向き合わなければ幸福などあり得ないのです。
つまり、現実を受け入れられないことが地獄(此岸)であり、現実を受け入れることが極楽(彼岸)です。生死も一つでセット、老いと若さもセット、病気と健康もセット、苦しみと楽しさもセットです。どちらが上(優れていて)でどちらが下(劣っている)ことなど、時間が経ってしまえば、受け入れるしかありません。
いつだって、人生(選択、決断)のハンドルを握っているのは、私たち自身です。本来の自分が進むべき道を、ハンドルを切るのか(逸れる、受け入れない)、そのままにするか(受け入れる)の判断は他人や他(仕事やお金、人間関係など)ではありません。

今の私の選択、決断の基準は、「自分が本当に必要とされること」。そもそも私が必要とされていなければ、前に進めない気がするのです。それが私にとって、本分(お坊さんの役割)を全うすることでした。僧侶(お坊さん)が僧侶の本分を全うすれば(いつも修行していれば)、必要とされることは、言わば「当たり前」なのですが・・・。僧侶がその本分を見失い、お布施(お金)ばかり追って、誰も望んでいないのに、自分勝手な言動、行為を繰り返すことは、言わば自分で自分の墓穴を掘っているようなモノです。つまり、地獄へ自分でハンドルを切って(舵取り)しているのです。(私もそうでしたが・・・)

そう言えば「お経」(教え)の「経」は「経済」の「経」でした!時代や場所は異なっていても、私たちが「必要」と感じるモノに「お金」は流れていくのです。ちなみに「経」の語源は「経糸」。衣類(縫製品)は「縦」(たて)が主で「横」は模様などを織りなすモノです。「横糸」が時代によって変化する流行で「縦糸」は時代や流行に左右されないモノ。それは自分の「本分」を見失っていないかどうか?に尽きると思います。今、与えられている仕事、人間関係(家族、友人など)の中で自他ともに「生かす」ことが、私たちの「本分」です。現実的に言えば、和尚さんは檀家さん(信者さん)に、先生は生徒に、お医者さんは患者さんに、主人はお客に、親は子供に、本当に望まれているか。どうでしょう?それぞれ「本分」の中身に違いはあれ、「相手」が必ずいて、「相手」にきちんと向き合っているか。それは結果的には「自分」の本分に向き合っているのです。自分の本分に向き合ってさえいれば、この苦しみに満ちた現実(此岸)を理想(彼岸)に変えること(渡ること)ができるのではないでしょうか?