令和7年4月法話「天上天下唯我独尊」

天上天下唯我独尊てんじょうてんげゆいがどくそん

お前、何様? 何も分かってないのに思い上がってんじゃねえよ

不平等で差別しかないこの世(天上天下)で、本来の自分(無我)だけは(時間、空間を超えて平等で差別がなく)尊い

人生は矛盾(不平等)が当たり前、綺麗ごと(天上)の中に生きる答えはない!目を逸らしている闇(天下)の中にこそ、生きる意味(平等)が隠されている

 この世は、平等(差別がない)ですか?

 それとも不平等(差別がある)ですか?

問われれば、恐らく、私も含めて皆、「不平等」と答えるでしょう。

 お釈迦様のご生誕にまつわるエピソードで伝えられている「天上天下唯我独尊」は私個人にあっては、自分の生まれから今までの「自分史」を考察する上で外せない気がします。

 このHP掲載法話を続けているうちに、私は、「私自身」を主人公にした小説(ノンフィクションドラマ)の作者であることに気付きました。このHP掲載法話は「私」という存在を誰かに気付いてもらいたいという強い想いがモチベーションです。私を突き動かしているのは、私の中にある「平等」でした。思い通りに生きていきたい、快適で楽に暮らしたい、他人より「上位」の存在でいたい、どこまでいっても不平等で差別を求めていた私は、ずっと違和感を抱えて生きていました。ふと、気付くと何か大事なモノを見落としていないか?という思いが私から離れなくなったのです。

 これは様々な要因はあるのですが、最初に感じたのは、まだ私が出家(お坊さんを志す)前の公務員時代でした。ある地方都市の市役所職員であった私が新卒採用で最初に配属されたのが「生活保護課」。経済的には特に不自由なく大学まで親のすねをかじって就職した私を待ち受けていたのは、自分のちっぽけな世界をひっくり返すには十分すぎる「現実」でした。

学歴社会、競争の中で迷いを抱えながらも私が学校で勉強していた一方で、学校にさえ、まともに行けない貧困最前線の子供たち、親の性的虐待でこころを完全に閉ざし、自ら命を絶つ少女たち、私たち市職員を恐喝し生活保護を迫る覚醒剤常習者、破門を繰り返し、小指、薬指を縁故詰めした暴力団準構成員など。ドラマや小説の中にしかない世界と思っていた残酷な現実が職務として与えられました。

 この時強烈に貧富格差のスタートがその「出生」であることへの疑問を感じたことを覚えています。出生は選べないのです。経済的に特に不自由なく過ごしてきた私にとって、自分の「出生」など、それまで気にしたことすらありませんでした。私は、「貧困」という(不平等)世界を頭で「知って」いても「理解」できていなかった。そして仕事と言う「現実」の中で「体験」して初めて「理解」できたのです。そして、その「理解」は同時に、自分はなぜ、市役所職員なのか、目の前の生活保護受給者の方々は、真面目に生きている人もいるのに、なぜ苦しんでいるのか、という根本的な疑問を生み出しました。蔑まれたり、侮られたり、他人から下に見られる環境に生まれることを望む人などいません。しかし現実は生まれた環境で「不平等」が生じているのです。

 見たいモノしか見えていない(見たモノしか見えない)、聞きたいモノしか聞こえない(聞いたモノしか聞こえない)、香りたいモノしか香れない(香ったモノしか香れない)、味わいたいモノしか味わえない(味わったモノしか味わえない)感じたいモノしか感じられない(感じたモノしか感じられない)

般若心経では「眼耳鼻舌身意」と刺激を受けやすい順に、私たちの体験(経験)で刷り込まれた「不平等」な世界観を「無」と一刀両断しています。私たちは「体験」がないと「体験していない」世界を理解できないのです。この未体験世界を受け入れるか受け入れないかで世界が構成されています。私は「ご縁」(空)で未体験世界の一部を体験させていただきました。「闇」世界を体験できたからこそ「光」が理解できた気がします。それまでの思い上がっていた自分が恥ずかしかったのと同時に、世の中を全部、わかろうとすること自体が間違っていたことに気付きました。自分のことすら、わかっていないのに、世間や他人を自分勝手な物差しで推し量り、批判したり非難することの愚かさ、思い上がりに「お前は何様だ?」と自問せずにはいられませんでした。自分の「出生」さえも、私たちは十分理解(受け入れて)していません。況や他人の「出生」や歴史は簡単に理解できるはずがないのです。

 知らない世界を知らないと言える「勇気」この勇気こそが、私たちを本当の平等に導く気がします。大人になればなるほど、「知らない」ことが怖く、恥ずかしくなってゆきます。そして、知らず知らずのうちに「不平等」の世界が外にあると勘違いとしてゆくのです。本当は自分の中で「不平等」を育てているにも関わらず。

 大丈夫です。私も含めて皆、「理解できない、知らない」ことが苦痛で逃げ回っている「臆病者」なのですから。少しでも「勇気」を出せるなら「生きている」うちに一歩「臆病者」から「勇者」に踏み出しませんか?不平等世界のど真ん中で本来の自分(平等)に気付けば、それだけで尊いのです!