令和7年5月法話「応無処住而生其心」

応無処住而生其心おうむしょじゅうにしょうごしん

~ぼやけた頭で(余った寿命で)思い出を漁る
  ヨルシカ 詩書きとコ―ヒ-より

お前だけ時間が止まってるぜ、受け入れることができないなんて年寄り(老害)になったな!

スマホやパソコン(道具)のスペック(性能)は最新に更新(アップデート)する割には、自分自身は昔で止まったまま(不自由なまま)。歳をとることは自分(中)も世間(外)も常に変化していることを意味します(諸行無常)。つまり、こころも時代に合わして(対応して)アップデートしないと、あっという間に取り残されてしまうのです。立ち止まらず(留まることなく)自由にサラサラと。

 五月病という言葉があるのはご存知でしょうか?新入生、新学期、新入社員、人事異動など、新年度を迎え、新しい環境になかなか馴染めず(適応できず)、こころが不調を訴える症状(様々ありますが)の総称だそうです。
(医学的な正式病名ではありません)

 標題の「応無処住而生其心」は金剛般若波羅蜜多経というお経の一節です。応に住する処、無く 其の心を生ずべし。何かに心が引きずられた(住した)時点で、自分の思いは矛盾の世界(地獄へ)に引き込まれます。心は対象に執着すると、はたらきが鈍くなる性質があり、そのため物事を偏りなく見ることができなくなるのです。つまり、私たちは、偏見や先入観で人生を台無しにしていることを自覚せよ、と強く諌められています。

 私自身のことで恐縮ですが、ひとつ取り柄と考えていることがあります。それは、年齢や性別、肩書に関わらず、目の前の相手に対して「敬語」を使っていることです。実は私自身が、年下(後輩)だから、社会的に影響力が少ない小さいお寺の住職だから、という理由(と思われますが)で、侮られ、蔑まれ、人権を無視されたと感じることが、多かったのです。私はその事実に嫌な思いを感じたと同時に、直感的に二つの選択肢があることに気付きました。それは、その嫌な思いを自分なりにどう消化するか?つまり、嫌な思いを自分で止めるか、自分もされたように嫌な思いを他人にもさせて、無限ループに陥るか。私が導き出したのは、自分で止めること。それは他人からどれだけ蔑まれても、自分は他人に対してはリスペクトを続けることでした。それが他人には基本「敬語」という選択です。時々、敬語で接していると、「他人行儀」と言われることもありましたが、年上の方は勿論、年下の方、男女問わず基本、敬語で接しています。自分の子供にも敬語で接することが多いのです。会話は臨機応変に、砕けた物言いをしますが、メールやLINEは、ほぼ100パーセント「敬語」です。

「我以外皆我師なり」という作家吉川さんの名言もありますが、仏教的には「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)」の言葉。「私は決してあなたを軽く見ません。将来仏になる(可能性がある)人なのだから」

 世の中は、すべて繋がっています(諸法無我)。自分を大事にすることは他人を大事にすることと同義です。年齢や性別、肩書など「今」という時間を自分勝手に止めて、違い(先入観、固定観念)を握りしめているに過ぎません。手放してしまえば、自分の「今」進むべき道を支えてくれる「ご縁」に変わりないのです。本来の自分(こころ)は「自由」(平等)なのに、自分で「不自由」(差別)にしてしまっています。「違い」(年齢、性別、肩書)に拘らない(執着しない、握りしめない)ことで、私たちは常に「自由自在」でいられます。

 余計なこと(現実を受け入れず、過去の成功体験に拘る)を考えている間に容赦なく時間は過ぎていき、終わり(寿命)を迎えてしまいます。私はそれが怖くて「坐禅」を続けています。時間を自分勝手に止めてしまう「思い込み」に引きずられ、貴重な時間が空費されてしまうことが恐ろしくて仕方ないのです。本来自由な「こころ」を自分で不自由にしています。気が付けば、なりたくなかった「大人」に「自分の選択」でなっていました。(自分の自慢話ばかりして、他人からうざがられる!そういう人に限って、他人は受け入れないのに、自分は受け入れてもらいたい欲で一杯)

 私は過去に拘れば拘るほど周りから必要とされなくなっていたことに気付きました。とにかく、過去の自分(成功体験を含む)を手放して、「今」に向かい続けなければ、生き残っていけないと危機感が芽生えたのです。誰かに必要とされるには「変わり続け」なければなりません。「変わる」(過去の自分を手放す)勇気があるからこそ、昔と「変わらない」自分でいられるのです。

 「時間」は川の流れのように、止まることなく「流れて」います。私たちも「流される」(他人軸、客体、)のではなく、自由にサラサラと「流れて」(自分軸、主体)いきませんか?

 しつこいようですが、もう一度申し上げます。応に住する処なく(自分勝手な先入観、固定観念を手放し、常にありのままに)、そのこころ(本来の自由自在なはたらき)を生ずべし(自分で自分を不自由にしていると勇気をもって認めなければならない)変わる勇気がない臆病者は、死ぬまで不自由を担いで、自由な誰かを羨ましがっているだけ!何もない方(応無処住)が身軽ですよ!