令和7年6月法話「戒め」
戒め
お前、もう終わってるぜ。(人の言うことを)聞く耳がないなら、誰もお前の言うことなんて聞いてくれねえよ。
他人や世間を責めても、自分の世界(器)は1ミリも大きくなりません。むしろ、気づかないうちに、自分が責められる立場となっているのです。
自分の思い通りにしたいのなら、思い通りにならない原因(矛先)を他人に向けるのではなく、一旦立ち止まってみませんか?
(「戒」は戈を止める習慣が原意)
何かをお願いするとき、皆様は何の代償を払いますか?もしかすると望んでばかりで、望みを叶えるための手段や方法(工夫)を怠ってはいませんか?すべての事柄には因果(原因と結果)があります。望む結果を求めるなら望む原因が必要であるということです。

「幸せ」な結果を将来に求めるなら、今「幸せ」という原因が必要です。言うなれば自分にとって「幸せ」は、何であるか?という本質を理解しなければならないのです。

閑話休題。数ヶ月前のこと。とある案件で北海道にあるお寺の和尚様と奥様と話し合いをしていました。こちらの予定と先方の予定を調整する内容だったのですが、予めこちらの希望する日程表を文書にして、お送りしていたので、それを基に話し合うつもりでした。しかし、そのお寺に着いて応接間に通されるや否や、和尚様の様子が明らかに強張っており、今にも怒鳴られそうな感じを受けました。案の定、先方の方から口火を切られました。端的に言いますと、先方の事情や予定を聞かずに、一方的に自分の予定を送るとは何事であるかということでした。私としては自分の都合を押し通すのではなく、飽くまで叩き台としてこちらの希望をお送りしたつもりでしたが、先方はそのように受け取っていませんでした。
それに気づいてからは、こちらの希望を先方に合わせながら、何とかその場を丸く収めることが出来ました。私の目的は、先方の気持ちを軽く見ず、安心してもらい、こちらの希望と先方の希望が寄り添いながら、互いの願いを叶えることです。先に送ってしまった文書は軽率だったと反省しながら、最後は先方の希望を聞くことに徹しました。私が自分の希望に拘って、先方(相手)の希望を変えてもらおうと話を聞かなかったら、破談になってしまうところでした。
これは私なりに過去の失敗の原因が、相手にあるのではなく、自分の方にあったことを自覚し、自分を律することが出来た(欲を制した)と考えています。それまでの私は(今でもボロは度々出るのですが・・・)相手から批判されたり、責められると、真っ先に「自分の方が正しい、間違ってない」と「我」を通して感情的に反応していたのです。自分の「願い」や「希望」があるとして、そこには必ず相手がいます。こちらの「思い」があると同時に相手にも「思い」がある以上、自分の言い分ばかり通るとは限りません。むしろ、こちらを優先させようと、「我」を通せば通すほど、相手は立場を守ろうと応戦してくるものです。相手(周りや環境)を変えたいなら、自分が変わるしか方法はないのです。

「戒」の文字を構成するのは「戈」と「止」です。生きていくことは「戒め」をすぐに(今)実践できるかどうかの「瞬発力」だと私個人は考えています。毎日のように、腹が立つこと、悔しいこと、辛いことはやってきます。そう言った感情が沸き起こることは避けられません。問題はその感情に対する「反応」です。自分の事を悪く言われたり、批判されたりした時、感情的になってしまう自分にどう対処するかが重要なのです。つまり、相手に向いてしまう矛先をどう収めるか?誰でも矛先は反射的に相手に向いてしまいますが、その自分を自覚して「収める」(止める)ことが肝心ということです。私が「坐禅」を続ける理由は、ここにあります。「坐禅」は「今」の姿勢と呼吸に集中して「思い(煩悩)」を継続させないことなのです。
人の脳は、話す(吐き出す)ことが快感で、聞く(受け止める)ことは苦痛と感じるように出来ています。脳(こころ)のメカニズムを軽く見てはいけません。なぜなら、私も含め、人は苦(苦痛)より楽(快楽)を選んでいることに気付かず振り回されているのですから。
私個人は、脳(こころ)のメカニズムから逃れられないからこそ「修行」が必要だと考えています。私自身が、楽(快楽)を求め続けた結果、行き着いた先は苦(苦痛)だったという苦い経験しか、こころに残っていないのです。楽に拘る(執着する)とセットで苦が増していました。それより、一見「苦」と思われた「修行」を習慣化してしまうと、「苦」の中に「楽」があることに気付くのです。少しの「辛抱」、少しの「勇気」で相手はこころを許してくれるものと考えます。他人の悪口を言うことは、時に快楽をもたらします。しかしセットで苦痛も押し寄せて来るのです。戈(攻撃)を止めて、被害は最小限に!
ちなみに仏教の言葉で、「煩悩を滅する」は、よく耳にすると思います。煩悩をゼロにすると誤解されていませんか?煩悩は私たちの生きる源(エネルギー)ですので、ゼロには出来ません。「滅」の原意(サンスクリット)は「制する(止める)」です。つまり煩悩(不安、悩み)を、自覚(気付いて)して、深く見る(見極める)ことが、そのまま安心、幸せにつながっているのです。そうは言っても、生まれ持った煩悩を飼いならすのは難しいモノです。自分から見えにくい「かげ」(闇)に「光」を当てる(意識化する)ことが、「おかげさま」という気がします。「おかげさま」と口にできる自分が「幸せ」ではないでしょうか?
