令和7年7月法話「山門施餓鬼会」
山門施餓鬼会
おめでたい奴だな。陰でバカにされていることに気付いてねえのか?
他人をバカにしている奴ほど、自分がバカにされていることに気付かねえんだよ
こころは脳の信号なんだから この世は全部 主観なんだから
ヨルシカ レプリカント
私が「吉成寺」というお寺に、ご縁があり、お預かりするようになって昨年で20年経過しました。それは吉成寺がある島根県「出雲」(いずも)地方に住んで20年になったことを意味します。転勤族とまでは言いませんが、在住期間が一番長くなった土地となりました。とは言え、まだまだ何か出来ることをやり残しているような不満も抱えています。
7月は禅宗寺院では「山門施餓鬼会」という法要が始まります。お釈迦様の十大弟子の一人、阿難尊者にまつわるエピソードが由来です。私なりに阿難尊者と「施餓鬼」を結び付けるキーワ-ドは「自惚れ」(うぬぼれ)の「自覚」ということです。ちなみに「餓鬼(がき)」とは「満足しない、できない」鬼のような人間性を表しています。

閑話休題。他人は自分を映す鏡(俗に鏡の法則と言われています)という言葉があります。仏教の言葉で意味は異なりますが、「大円境智」という「鏡」にまつわる教えもあります。私自身の考えですが、「仏教」の究極的な目的は世界を「ありのまま」に見る(こころに映す)ことである気がします。こう言われると「自分はありのまま、見ている」と考えてしまうのではないでしょうか?実は私たちが見ている世界は「ありのままの世界」ではなく、「ありのままのわたしたち(の世界)」なのです。(7つの習慣 フランクリン・コビ-著)綺麗な(状態の)こころで世界を見れば、世界は綺麗です。逆に汚れていたり、濁っていたりする(状態の)こころで世界を見れば、世界は汚いのです。角度を変えれば「満たされた(満足できる)」こころから発せられる言動は優しく(綺麗)で「満たされていない(満足できない)」こころから発せられる言動は優しくない(汚い)のです。
個人的な話で恐縮ですが、私は物事をはっきり口にする性格であるため、度々人と衝突をしてきました。特段、正義感が強いというわけではありませんが、何故か私の周りにいる人の中で、困っている方がいて気付いているにも関わらず、見て見ぬふりをする人たちが多かったのです。「良いことは良い。悪いことは悪いとはっきり言える人間になりなさい。」私が20数年前、京都の修行道場の老大師(師匠)が信者さんにおっしゃった言葉が、今でも私の心の片隅にありました。ただ、現実は組織や人間関係の調和の為に、悪いことを見て見ぬふりをすることも、時に争いを避けるために必要かと思われます。しかし最後は自分自身の問題です。禅宗では「ずる和合」という辛辣(しんらつ)な言葉があります。客観的に見て「悪い」事実を、保身や自己利益を優先させるために、捻じ曲げて、誰かを貶めたり、不快、苦痛にさせてしまうなら、そのツケ(代償)は必ず訪れます。私自身、悪いとはわかっていても、「あの人に嫌われたら、自分の損になる」と目をつぶっていたこともありましたが、最後はもう一人の自分が許さないのです。損得勘定に拘る(執着する)醜い自分(餓鬼)がいる一方で、それを認めたくない自分(仏、本来の自己)がいます。醜い自分は自らの防衛本能(脳の作用)により、自分の非や誤りを認めようとしません。醜さを覆い隠そうと、他人や世間、社会に誤りを転嫁させてしまう(他人を非難、批判、バカにする)のです。そんな自分に、私たちは気づいているのです。一時、仮初めの「安心」を得ようと、毎日、醜い自分(不安)を誤魔化しながら私たちは生きています。それで不安や迷いを根深くさせているのではないでしょうか。
お釈迦様の十大弟子のお一人、阿難尊者は人一倍、頭脳明晰、容姿端麗と伝えられています。しかしながら、なかなかお悟りに達することが出来ず、騒がしい祇園精舎(お寺)を離れて静かな森の中で坐禅することが多かったそうです。そんな阿難尊者の目の前に現れた、口から炎を吹き出す恐ろしい形相の焔口餓鬼。「お前は後3日で死ぬ」と宣告され、怖れた阿難尊者がお釈迦様に、多くの修行を終えた僧侶を供養せよと教わり救われました。個人的には阿難尊者が自らの優秀さに甘えて、自分は人一倍坐禅に励んでいるのに、なぜ、他の修行者はお悟りに達して自分は認められないのかという「自惚れ」があったと感じています。ですから阿難尊者が見た焔口餓鬼は「自惚れ」の自分を諫めるもう一人阿難尊者だと思うのです。私は、自分がどれだけ頑張ってきたか、その自己満足を他人に認めてもらいたいと「自惚れ」のど真ん中いた気がします。つまり私自身が「餓鬼」を自ら覆い隠していたのです。私がずっと見てきた外の世界は、ありのままの外の世界ではなく、自惚れている餓鬼のありのままの世界でした。きっと私の知らないところで私はバカにされていたに違いありません。他人をバカにする(侮る、軽くみる)自分は他人からもバカにされています。

私たちは、自覚してないだけで、自分も他人も基本「餓鬼」です。言い方を換えるなら皆「満たされていない(満足、安心していない)」のです。私自身、満たされていません。でも、「満たされていない」という「自覚」があるから、「坐禅」も「法話」も続けられるのです。時間も場所(空間)も留まることなく、変化を続けます。言い換えれば、一瞬「満たされた」としても次の瞬間は「満たされない」状況の繰り返しが「人生」だと私個人は考えています。ですからスタートは「満たされていない」ことが「当たり前」と覚悟してしまえば良いと考えます。もっと言うなら「自分は餓鬼である」ことを認めてしまえば良いのです。今なら私は自分の中の餓鬼を認めている気がします。思い上がった自分が生きていけるのは生かしてもらっているから。ならば「おかげさまで」と恩返し(施:誰かに喜んでもらう)せずにはいられないと感じている今日この頃です。


