令和7年8月法話「お盆」(盂蘭盆)
盂蘭盆
いつか、どこか、誰かの問題じゃねえんだよ。お前自身の問題なんだよ!
~生きることは、しんどくて面倒くさいことばかり(苦しみ)
簡単に(楽に)生きていけるほど、人生甘くありません。苦しいことを避けて(見て見ぬふりをして)楽になれるという安易な思い込みが「逆さ吊りの苦しみ」
生きていくことは苦しさの中に楽しさを見つけること。

「お寺離れ」、「檀家離れ」などの言葉をよく耳にするようになりました。
間もなく迎える「お盆」。ご先祖様をお迎えするに当たり、「お盆(ぼん)」の原意(由来)について、改めて考えていきたいと思います。「お盆」は仏教が生まれた約2500年前のインド言語、サンスクリットで「ウランバ-ナ」が中国、日本に伝わる過程で「盂蘭盆」に音訳され、今現在「お盆」と言われ先祖供養の期間となっております。「盂蘭盆」の意訳は「逆さ吊りにされた苦しみ」です。
私自身のことで恐縮ですが、「お寺離れ」を考えた場合、思い当たる節がありました。私はそもそも、お寺生まれではありませんでしたので(吉成寺は実母の実家)、出家してから、「仏教」や「お寺」に関わるようになりました。サラリーマン(地方公務員)から29歳の時に「吉成寺」の後継者となることを決めて、退職し、そこから京都の修行道場に入門し、足掛け4年ほどの修行を終え、お寺の住職(お預かりする)となりました。その頃から、すでに「葬式仏教」と呼ばれ、「お寺(檀家)離れ」は始まっていたのです。私自身が修行道場で学んだことは、多少不便であっても「生きていける」ということでした。テレビも携帯電話もパソコンもエアコンといった冷暖房設備もなし。食事も肉や魚、卵といった動物性タンパクがない精進料理。寝る間を惜しんで坐禅三昧。出家前のサラリーマン時代の生活から一変したわけですが、自分の意志で選択したので、それほど苦痛に感じなかったと覚えています。私なりの理解では、不自由(一見苦しい)の中に自由(楽)があることに気づいたのが道場での日々でした。ですから、自坊(吉成寺)をお預かりした当初は、どのように、この「気づき」を伝えていけば良いか試行錯誤であった気がします。しかしながら、皮肉なことに私自身がお寺の経営(お金)のことに気を取られてしまい、あっという間に出家前の便利さを貪る暮らしに引き釣り込まれてしまったのです。つまり自らの足元(修行)を疎かにして、自分で迷って(不安、不満になって)いました。こうなると、僧侶(お坊さん)として、何の説得力もありません。言っていることとやっていることが違うのですから。坐禅を通して僧侶の資格を得たのだから、やはり、布教(教えを示す)は坐禅が軸になっていないと。自分が坐禅を怠っているから、空回りしていると思い始めたのです。ようやく6年前に毎週土曜日の8時から定期坐禅会を催すことができるようになりました。おかげさまで、私一人で坐禅することは一回もなく、誰かと一緒に坐禅をしています。そもそも「生きる」ことは不便で不自由で辛いことばかり。それが当たり前だからこそ、坐禅があるのだと。不便や不自由といった苦しさを避けるのではなく、向き合ったその先に便利、自由があるのです。皮肉なことに私自身が、修行道場で学んだ基本から離れ、「お寺離れ」していました。つまり修行が基本の私(僧侶)が修行(苦)から離れて、自分勝手(楽)にすることが「逆さ吊の苦しみ」だったのです。
ですから私は今、坐禅中心の布教です。もっと言うなら坐禅の延長上に葬儀や法事をしているイメージです。僧侶のすべきことは、偽りない自らの体験に基づいた教えを説くことと考えます。衣を身に着け、お経を唱えているだけで何の修行もしてない、僧侶(お坊さん)にお葬式、法事をしてもらっても、こころに響かない(お布施をする価値がない)のは当たり前で「お寺離れ」「檀家離れ」は言わば必然なのです。禅宗の看板を掲げ、坐禅を布教していないのは、外から見ると「詐欺」同然ですし、況や物価上昇で生活が苦しいこの時代に高額な、お布施を差し上げなければならないのは「宗教ハラスメント」そのものです。お寺の檀家になれば、生きた教えに触れることができ、安心して暮らせる「法施」(僧侶による教えの施し)が、あるからこそ、檀家になるメリットがあるはずです。それが安心も与えてもらえず、逆に不安しかないのであれば、お寺と付き合う魅力は全くありません。

「生きている」ことが「(楽で)当たり前」でなく「(苦しくても)有難い」ことに気づかしてくれる教えがないと仏教(禅)寺院の意味がないのです。お寺離れ問題、檀家離れ問題、~問題など。問題とした時点で、仏教的(禅的)に言えば他人事です。世の中のすべてはつながっており、世の中の一部が私たちなのです。ですから、「自分」以外の「他人(他)」に原因を求めるのではなく、「わたしたち自身」の問題として捉えなければ無意味な議論となってしまいます。(実際はテレビ番組やインターネットの議論がほとんど無意味と思われますが・・・)
今日、「今」(現在)が幸せ(満たされている)でなければ、明日(未来)が幸せになることはありません。過去は変えられませんが、「今」のこころは変えられるのです。「今」が変えられないのに、どうして未来が変えられるのでしょう?
私も読者の皆様も今「生きて」います。呼吸すること、食べること、排せつすること、眠ること、起きること、話すこと、歩くこと。「生きている」ことは面倒くさいのと同時に「有難いこと」(幸せ)なのではないでしょうか?それに「おかげさまで」と言える人から「幸せ」になっていく気がしています。



