令和6年1月法話「修正会」
修正会
ゆっくりと出来る事だけ それだけでいい
小林健樹「祈り」より
例年になく、暖かなお正月になりました。謹んで新年のご挨拶を申し上げます。禅宗寺院では三が日間、「修正会」というお勤めをします。 前年の悪を正し、一年の吉祥を祈る法会で、大般若経転読という「祈祷」を行います。それは「祈り」であり「願い」とも言えます。
皆様も「祈願」の為、初詣にお参りになりますか?何をお願いになるのでしょう。「この一年健康でいられますように」「少しでも経済的に楽になりますように」「子供が希望校に合格できますように」などなど。ちなみに、その「願い」が叶えられた先には何が待っているのでしょうか?つまり「願い」の目的が「自分」や「家族」だけモノか、他人(社会)にも良い影響を及ぼすモノか。仏教では私たちの「願い」(に基づく行為)が自分だけでなく、他人にもご利益を与えるモノなら「功徳」もしくは「徳」と呼びます。
20年前、私は京都の僧堂(専門道場)での修行を終え、自坊(吉成寺)の住職に就任したばかりでした。すると間もなく僧堂の知客寮(副住職)さんから電話がありました。老大師(指導者、住職)が島根県江津市の高校に坐禅指導に行かれるので、加担(手伝い)に来てほしいと。僧堂を引いたばかりの私に同じ島根県ということで、声をかけてくださったのです。徳の高い尊敬していたお方でしたので、まさか私なんかを気にしておられると思っていませんでした。大変驚きましたが、是非参加させて下さいと返答しました。緊張の中、坐禅会当日を迎え、待ち合わせ場所で待っていたところ、半年ぶりにお会いした老大師。相変わらず、背筋がピンと伸びて、姿勢が良く、和尚衣でなく、修行僧の雲水衣を身にまとったお姿は、近づき難い雰囲気がありながらも、私を見つけるとすぐに優しいお声をかけて下さり、瞬時に和やかな空気に変えてくださいました。高校に到着すると全校生徒が体育館に集まっていて、簡単な自己紹介の後に1時間程度の坐禅指導を老大師と一緒にさせていただきました。その後老大師の法話を拝聴する機会に恵まれました。その中のある一言が、今でも私の現成公案(禅の教えを日常の中で応用、実践すること)となっています。「真心の声を聴き、真心を尽くしていけば、力は出そうとしなくても、出るものですよ」
「真心」とは、私たち本来の「主体性」(仏、こころ、いのち)であり、誰もが等しく生まれた時から備えているものです。「真心」の声に耳を傾け、自らのなすべきことに専念してさえすれば、「力を出そうと意識しなくても、(普段の精進、努力のおかげで)自然に力が出て実力が発揮される」と老大師から教わったような気がしました。それは「願い」そのものであると思うのです。
幸せ(吉祥)は求めるモノでなく、「今」を誠実に生きた先にあるモノである気がします。つまり「今」が幸せでなければ、「未来」も幸せになるはずがないのです。自分にも他人にも誠実でない人が、一年に一回手を合わせたからと言って幸せになるほど人生は甘くはないですよね?ここで言う「誠実」とは、「こころ」がいつでも真っ直ぐ(正しい)ということです。なぜなら「幸せ」という「主観」の本体は「自分のこころ」(考え方、世界観)なのですから。「こころ」が「真っ直ぐ」ではなく、「歪(ゆが)んで」いれば、私たちの目に映る世界は「歪んで」見えます。私たちが本来の自分(主体性、こころ、いのち)に気が付けば「幸せ」はこちらから求めなくても自然に(勝手に)訪れるモノです。(臨済録「示衆」より)
「あけましておめでとうございます。」新年を迎えることは単なる時間の節目で、おめでたい(有難い)わけではありません。節目に「自己を顧みる」節目が廻ってきて「自分に向き合う」ことが、貴重な機会(ご縁)なのです。年末に一年の「歪み」(煩悩)を自覚して、年始に白紙である自分(菩提、誠実なこころ)に戻す(修正)からこそ「めでたく、有難い」のです。自分の「こころ」を「修正」できるのは自分しかいません。
このように申し上げている「わたし」自身が、実は偽りだらけの不誠実そのものです。いつも自分の都合よいように現実を捻じ曲げ「妄想」してしまいますし、嘘もついてしまいます。悪いことであると気づきながらも、無意識に自分を偽っているのです。それでも「誠実」(幸せ)を祈らずにはいられません。自分が「歪んで」いると知っている(自覚)からこそ、日々「おかげさま」を口にしながら「坐禅」「法話」で「歪み」を「修正」(矯正)するしかないのです。
「歪み」とは「習慣」(癖)です。「不」と「正」で構成された「歪」は時間をかけて、ゆっくりと気付かないうちに、私たちの「こころ」を捻じ曲げてゆきます。ですから、ゆっくりと「今」、「今日」出来ることを「誠実」(正)にしていけば、それだけでいいのではないでしょうか。余計なこと、言い訳が沸き起こる前に、「今」に向き合い続ける。「修正会」の「修正」とは「正」を「修める」つまり「考える前に行動(実践)」を積み重ねることです。「出来る事」をするか、しないかは自分次第です。出来れば「幸せ」(正)、出来なければ「不幸」(不正)の連続が一日であり、一年で、人生です。ですから、自分の出来る事が他人(社会)にも良いご利益に繋がっている(功徳)ことを「祈願」しながら、本年もともに精進してまいりましょう。どうぞよろしくお願い致します。
※諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教(わたしたちは無意識に染みついた悪い習慣、癖があるので、意図せずに自分や他人を傷つけてしまう だから意識して良い(徳のある)行為を志し、繰り返しの中で習慣化しさえすれば良い 自分のこころ(意識)を自分で清めていくのだ これが過去数えきれないほどの仏様が説かれてきた共通の教えである)
~七佛通戒偈より