令和6年3月法話「地獄を侮ることなかれ」

地獄じごく

笑え 真面目な顔で澄ましてるあんたも 実はまともじゃないのさ
ヨルシカ 強盗と花束より

 「能登半島大震災」は私たちの想像をはるかに上回る被害をもたらしました。13年前に発生した「東日本大震災」も3月11日に日本全国を深い恐怖と悲しみに包みこみました。しかしながら、どんなに「地獄」のような残酷な現実があろうと、時間は止まることなく刻々と時を刻み、20日には春の「彼岸中日」を迎えようとしています。

 「彼岸」とは世間的に、お亡くなりになられた方々、ご先祖様にお参りする節目となっています。生きている私たちが「此岸」から、死者(彼岸)のご冥福をお祈りします。「冥福」とは「死後の世界」(冥:暗い)の「福」(幸せ)を意味します。

 ところで、「地獄」とはどこにあるのでしょうか?俗に言う「地獄」とは生前悪事を積み重ねてきた者が「死後」に赴く処とされています。しかしながら「地獄」は「死後」という未来のことではありません。実は「生きている間」に感じてしまう(一瞬で現れる)世界の一つが「地獄」なのです。(「六道輪廻」も同様ですが)
 「地獄」の「獄」は語源から言えば「いがみ合う」「訴えて言い争う」です。私個人は「地獄」とは他を「許すことができない」(認めることができない、受け入れることができない)自分が堕ちてゆく世界と考えています。自分の中に「仏」(極楽)と「魔」(地獄)は同居しており(臨済録 示衆より)、「仏」を望みながらも「魔」に負けて悪事を積み重ねてしまう、強烈なジレンマ(もしくは精神崩壊)が地獄と言えるのではないでしょうか。私たちは常に自分の中の「仏」(理想)と「魔」(現実)がいがみ合っています。
 ナルシストで自己顕示欲の強かった私は、認めてもらいたい、評価してもらいたいと、自己主張ばかりしていました。自己評価は常に高く、自分には甘々な割に、他人には厳しかった気がします。自分のことばかり話して、人の言うことを聞いてないのです。そんな器の小さい私の元に誰が寄ってくるというのでしょう?
 他と関わりたい(つながりたい)のに、気が付けば「一人ぼっち(孤独)」でした。家族がいて一緒に過ごしている。学校に行って同級生や先生に囲まれている、仕事に行って職場の方々、お客様と接している。目の前に多くの人がいるにも関わらず、孤独を感じる。居場所がない。世界は広いのに、狭く暗い(冥)ところに追い込まれている。常に不安で満たされていない。(地獄とも言える)「今」「ここ」ではない時間や場所を望んでしまう。なぜでしょうか?わたしたちが自分のことや他人のこと(他のこと)を自己都合(自分勝手に)決めつけて「許していない」からではないでしょうか。他人から傷つけられる、劣等感やコンプレックス、ストレスを与えられる、これら地獄の業作りとも言える感情は、少なくとも私自身、無能、無力であったにもかかわらず、(他人を許さず)思い通りにしてやろうという思い(欲)が原因であったと思います。
 私は自分と他人(他)を「別」と決めつける(争う、いがみ合う)ことがやめられなかったからこそ、「生きる」のが辛かったと最近ようやく気付き始めました。独り善がりの自分が自分で気づけない(自覚できない)ことが「地獄」だと考えます。

 つまり、外界(外の世界、向こう側)から「地獄」が偶然現れたわけでなく、内界(中の世界、こちら側)で自ら作り出した(描き出した)必然の世界が「地獄」なのです。私自身は長い間、現実(地獄)を侮って(ナメて)ました。

 誰でも皆「地獄」(現実)は逃げたくなるモノです。私も怖くて仕方ありません。でも生きなければなりません。現実(地獄)から目を逸らして「死んだ」ように生きるなら、私たちは「生きながらにして死んでいる」も同然です。私は少し勇気を出して「坐禅」「法話」を実行に移した時点から「自分」という臆病で卑怯で醜い人間(地獄)を垣間見てきました。姿勢と呼吸を調えて「こころ」を澄ました先に見えるのは、何処まで行っても、どうしようもない「自分」(地獄)なのです。だからこそ、今は自分が「まとも」であると思うのは、「思い上がり」に過ぎないと理解し始めました。世界(外)はそもそも世界自らが極楽とも地獄とも言いません。それに触れて反応する私たち人間が作り出す(描き出す)脳内反応そのものが「六道輪廻」(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)の正体なのです。
 地獄の番人とも言われる「閻魔(えんま)大王」はご存知でしょうか?実は閻魔大王の本来のお姿は地蔵菩薩(お地蔵様、仏さま)です。悪いこと(地獄)をしようと思ってもできない、もう一人の自分(仏)が私たちの中にいる一方で、「わかっちゃいるけど、(悪いことを)やめられない」罪深き私たち。日々無意識に「生きている」今を疎かにしてしまいます。閻魔大王は恐ろしい形相で、悪事を裁く(咎める)半面、悪事に向かってしまう、こころが弱いわたしたちを優しく包み込む、お地蔵さまにも姿を変えて、見守ってくださっています。一見「矛盾」と思えるかもしれませんが、私たちの身の回り(この世)をよくよく観察すれば、「矛盾」だらけです。平和を望みながらも戦争や震災は起こり、社会でも学校でも「いじめ」や「虐待」はなくなりません。同様に私たち自身、幸福を望む一方、不幸となる悪事を積み重ねているのです。世の中は自他ともに「矛盾」という「地獄」そのもの。「地獄」を「極楽」に変える方法はたった一つ。「地獄」を「許す」(受け入れる、認める)自分に変えていくしかないのです。

 でも大丈夫です。日々地獄の中を生きている(生かされている)からこそ、私は「おかげさま」で「こころ」を極楽に再生(輪廻転生)するのです。「こころ」の奥底(かげ、冥)に隠れている閻魔大王(地蔵菩薩)を見失わないためにも。江戸時代に途絶えかけた臨済宗を再興された「白隠禅師」は「南無地獄大菩薩」という言葉を残されました。これこそが「おかげさま」を言い換えた言葉ではないでしょうか。私なりの意訳をすれば「この世(地獄)をなめるなよ!地獄の中にこそ、本物の安心(仏)があるのだから」