令和5年10月法話「達磨安心」

達磨安心だるまあんじん

怖くないわけない でも止まんない

radwinps グランドエスケ-プ より

 少しずつ秋を感じる日も多くなってきましたが、如何お過ごしでしょうか。10月5日は禅宗の初祖、達磨大師のご命日(達磨忌)に当たります。余談ですが、私が修行させていただいた京都の相国寺専門道場では、達磨忌以後から冬衣に衣替えとなり、この日は休息日でした。

達磨大師には命がけで教えを請うた弟子、慧可との逸話が伝えられています。

慧可「私はこころが不安でございます。」
達磨大師「その(不安な)こころを私に差し出してみよ」
慧可「こころを掴み取ることはできませんでした。」
達磨大師「そなたのこころを安心させてやったぞ」

 先日、本山妙心寺に奉仕団体参拝(本山の境内や伽藍を清掃奉仕する目的でお参り)に出かけて参りました。参拝二日目に朝7時から朝のお勤め、読経後に布教師の和尚様の法話を拝聴した時のことでした。お話が終わって、一緒にお参りになられた方々と法話の感想を交わしていましたら「無茶って、なぜお茶が無いというのかしら」というご意見がありました。お話の中で布教師の和尚様は「無理と無茶」という言葉を何回か口にされていましたので、どうも耳に残った様子でした。実は私も気になっていましたが、その場ではっきりとお答えできる自信がありませんでしたので、調べて来月のHP法話の中で、お答えしますと返事をしました。(頭の悪い私は、法話の内容自体は忘れてしまいましたが)自坊(吉成寺)に戻って、「無理」「無茶」を調べていくと、大雑把に申し上げると、どちらも「理屈(道理)に合わない、不合理なこと」という意味でした。「無茶」は「むちゃ」という擬音「度を越して激しいさま」を表した当て字(俗語)とされていました。(漢和辞典には当て字の記載はありません)国語辞典によっては禅語「無作」(むさ)が語源とされていました。「無作」は「はたらきがないこと、造作を加えないこと」です。ここで少し疑問が湧きました。私たちが普段使っている「無茶(むちゃ)」と語源の「無作(むさ)」に明らかに違いがあるのでは?しかし達磨大師と慧可禅師の問答について考えていた時に、思い当たる節がありました。出来の悪い私に限ってかもしれませんが、そもそも人生の大半は「無茶」なのでは?という思いです。「不安」や迷いは自らの本心(仏心、主体性)を見失っている状態です。それに対して何の対策、防衛手段(処方箋)も講じないからこそ、「不安」や迷いが時間をかけて深く、広くなっていくような気がします。「不安」や迷い(苦しみ、痛み)が目の前にあるのに、見て見ぬふりをして時間が徒に過ぎ去ることを待っているのが私たちの(無作・・・何もしないでただ、迷いに振り回される)姿ではないでしょうか。私自身、どこか潜在意識に息苦しさはありました。自分がこの世から消えていなくなればいいのにと思うこと、あらゆることに嫌気が差して、誰からも必要とされず、自分の居場所など、この世のどこにもないと感じてしまうのです。逃げ場がなく、常に追い込まれているようでした。しかし根本的な問題は「不安」である「自分」がわからないことこそ「不安」であったことでした。「不安」の本体にメスを入れずに(無作)「無理」をしないまま、いつかどこかに自分の思い通りになる「安心」という「安全地帯」が必ずあるはずだと思い込んでいた気がします。もっと早くに「不安」の自分を受け入れることが出来ていたなら・・・。いつだって「現実」は残酷です。様々な代償と引き換えに、ようやく「不安」な自分に向き合うようになったのですから。多くを失った、「今」なら少し理解できます。「不安」を抱えて「生きている」のは「当たり前」であるということを。達磨大師と慧可禅師の問答を修行道場で初めて知ったとき、あまりの凡庸な(平凡な)内容であったため、大して気に留めていませんでした。ですが今なら少しその奥深さが理解できる気がします。実際はうかがい知れませんが、達磨大師からの問いかけに即答されているのではなく、相当な時間、慧可禅師は粘り強く考えて(無理をして)絞り出されたのではないかと考えます。その答えが「こころ(不安)を掴み取ることができなかった」

「安心」な自分も、「不安」な自分も捕まえることができない、その不安定こそ「安定」と言えます。私たちは目の前の問題(不安、悩み、苦しみ)にきちんと「悩んで」いるでしょうか?私に限って言えば、「不安や悩み」を抱えることが「不安」(苦痛)で、目の前の問題(現実)から、いつも目を逸らしていました。「安心」を求める私たちにとって「不安」は「理屈(道理)に合わない、不条理なこと」、すなわち「無理」そのものです。しかしながら「不安」(無理)の中に「安心」が内在されている以上、時には、「無理」をして「自分」を見極めていく必要がある気がします。

 悩んでいいのです。不安や迷いを抱えて生きていくことは確かに、ある意味苦痛です。しかし不安に向き合わないことには(悩まないと)前に進めません。わたし自身も「不安」(無理)と向き合うと覚悟を決めたからには、「坐禅」「法話」を続けるしかないのです。世間に何の役にも立たない無力な「わたし」をさらけ出していくことは、正直に言いますと「怖い」(苦しい、辛い)です。しかし、後戻りすることも、立ち止まることもできません。今も私は「生きていること」は「苦しい」(不安)と感じています。「この世から消えていなくなりたい」と思ってしまうこともあるのです。しかしながら以前と違って、不安になる度に「苦しいことこそ人生だ」と腹を括ること(無理する)ができるようになった気がします。「苦楽」は常に背中合わせ。(極楽地獄、幸不幸なども)

 「おかげさま」の「かげ」とは無意識に目を逸らしている不安(苦痛)そのもの。不安に手を合わせられる(無理と思い込んでいた)ことこそ、わたしたちの安心(居場所、安全地帯)であると教えてくれているのかもしれません。