令和5年12月法話「成道会」

成道会じょうどうえ

奥にあった想いと一緒に握り潰したの 大丈夫

back number ハッピーエンドより

 早いもので気が付けば、本年も残りひと月となりました。慌ただしく年末年始の支度も始まっておられるかと存じますが、如何お過ごしでしょうか。
12月8日はお釈迦様のご縁日、三佛忌のひとつ「成道会」があります。お生まれになられた「降誕会」、お悟りになられた「成道会」、お亡くなりになられた「涅槃会」。

 お釈迦様がお悟りになられて、最初の説法(教え)を「初転法輪」と言います。その中心は「四諦(八正道)」。「諦」とは「あきらめる」ことですが、イメ-ジ的には「断念する」というマイナスな意味合いが強いのではないでしょうか。しかしながら本来は「明らかにする、つまびらか(審)にする」というプラスの意味合いです。「生老病死」という四つの避けられない問題とどう向き合うが、迷いと悟り(諦)の違いであると。

 先月、吉成寺の隣接地域に位置するお寺(玉昌寺様)が会場となり、斐川地区寺院(13ヶ寺)住職、檀家役員の布教研修会がありました。本山からの布教師和尚様は東京からお越しの並木泰淳師(金龍寺様)でした。師とは5年前に本山の布教講習会で、ご一緒させていただいたこともあり、親しく法話も拝聴させて頂きました。法話演題の「おかげさま~迷いの中に光を見出す」に沿った、ご自身の体験を聴衆目線で、暖かくお話いただき私もこころに響きました。お話の中で特に印象に残ったのが「仕方ない」という言葉の先に「諦め」があるということでした。ご自身の若い頃に病気で亡くされた友人の発した「仕方ない」は、修行を積まれた今の師にとって決して後ろ向きの言葉でなく、どうしようもない目の前の現実を乗り越えていくための前向きの言葉であったと。

 私自身を振り返っても「仕方ない」の連続であった気がします。これまでのHP法話でも触れてきましたが出家してお坊さんになっている「今」も「仕方ない」の先にあった現実でした。思い通りにならない目の前の問題から、苦痛を感じながらも目を逸らさず向き合った結果、出家(お坊さんになる)しかなかったと。当時は単なる思い込みに過ぎなかったと思います。しかし、少なくとも「覚悟」を決めてサラリーマンからお坊さんに出家するという第一歩を踏み出した(体験、実行、実践)からこそ、今は少しずつ「前」に進んでいると感じています。

 「仕方ない」(諦める)は「覚悟」が必要です。「覚」は(眼が)覚める、「悟」もこころの迷いが醒めるという意味合いです。いずれにしても「気付く」ことです。つまり現実を直視していない私たちが、外部の「ご縁」(きっかけ、契機)に触れて、いかに反応するかではないでしょうか。目の前の現実を「当たり前」と見て見ぬふりをして「立ち止まる」ことがなければ、「大事な事」に「気付く」ことすらありません。思い通りにならない、望まない相手(他人)、出来事(他人事)であっても、一呼吸(一旦)立ち止まり(受け止め)、しっかりと向き合っていくうちに、自分にとって見落としていた「何か」に気付くはずです。私たちは「前」にしか進めません。そして思い通りにならない(面白くない)ことばかり続くのが「本物」の人生ではないでしょうか。

 思い通りにならない現実(素材)を、どう自分で調理して、それを飲み込んでいくか。案外、自分の薄っぺらな見方、考え方で「食わず嫌い」していただけで、食べてみると(体験してみると)おいしい(面白い)かもしれません。いずれにしても面白いか、面白くないかは体験して自分が決めることです。そして体験(実行、行為)しないと始まりません。大丈夫、大抵のことは自分の思い過ごしであって時間が経てば、何でもなくなります。実際、私たちは、この一年も何とか乗り越えてきたではありませんか?様々な思いはあると思いますが、過ぎ去ったことは元に戻せません。そして一瞬も止まることなく、私たちは「死」に突き進んでいくのです。良い思い出も悪い思い出も「今」は握り潰して(飲み込んで)、「前」に進む「覚悟」を決めませんか?大丈夫。自分の進むべき「道」は、私たちの中にしかないのですから。そして「道」が見えたとしても実際に歩み続けること。

 本年もつまらない話に、お付き合いいただき有難うございました。