令和6年2月法話「自灯明 法灯明」

自灯明じとうみょう 法灯明ほうとうみょう

僕にしか できないことは 何だ?
yoasobi 群青より

 大寒も過ぎて節分を迎える砌、寒さも一段と厳しくなってまいりましたが如何お過ごしでしょうか。先月、元日に起こった能登半島地震は全国に驚きと悲しみをもたらしたと拝察いたします。被災された方々に、心からお見舞い申し上げます。2月15日はお釈迦様のご命日「涅槃会」です。

 お釈迦様のお弟子さんたちへの遺言とも言えるお経が「遺教経」です。その中心は「自灯明 法灯明」。師匠なき後に頼るのは、自らの「こころ」(自)であり、その「こころ」を行為として体現していく対象が「教え、導き」(法)であると。

 昨年12月、年末の境内掃除をしていた時のこと。自坊(吉成寺)は小さいながら、山を背にしているので、毎日、どこかしら、落ち葉があります。裏庭から境内外にある歴代住職墓地まで、手作業では追いつかないので、飛び道具(エンジンブロワ-)を使います。落ち葉を回収しやすいように、数か所に飛ばし、吹き固めていきます。境内の落ち葉回収が終わり、外の歴代塔に向かうと対面する檀家墓地にお墓掃除する人影が見えました。「朝から熱心だなあ」と感心する一方、明日は大晦日で飾り付けが忙しいので、声をかけることなく、こちらの仕事に精を出していました。2時間程度で午前中の掃除に一区切りをつけ、他の寺務をしようと檀家墓地に目をやると、まだ同じお宅のお墓で墓石を磨いている姿が見えました。場所的に何某(個人名)家だから、掃除をしているのは、Hちゃんかな?彼女は私が吉成寺をお預かりするようになった20年前から知っていました。当時、お寺の総代をしてくださっていた方のお孫さんで、小さい頃から物静かながら、どこか内に情熱を秘めているような印象がありました。今春、関東の難関国立大学を卒業して地元に戻り、今は島根県職員として働いています。数年前からでしょうか、お正月前のこの時期に結構な時間をかけてお墓掃除をする姿を見かけるようになったのは。就職して公私ともに大変であろうに。「素晴らしい」と、こころの中で感心の声をかけ、(実際には声をかけていませんが・・・)寺務作業で寺内に戻りました。午後も正月支度で飾り付けや買い出しなどで出たり入ったりしていましたが、そのたびに檀家墓地に目をやると、まだ掃除道具が見え、人影も確認できました。「ん?そんなにお墓を掃除することあるのかなあ」とやや心配気味に感じながらも、こちらも自分のことで一杯一杯なので声をかけずにいました。

薄暗くなり、夕方を迎えようとする時分、予定していた仕事は一応一区切りつきました。少し息抜きしようかと趣味のバイクで檀家墓地裏の参道を走行すると、Hちゃんはまだ墓石を磨いていました。一瞬、幻を見たのかと自分の目を疑いました。こちらに気付いたHちゃんは軽く会釈をしたように見えましたが、予想外の光景に慌てた私はコンマ数秒、フリ-ズ(思考停止)してしまいました。「和尚さん、年末の忙しい時にバイクで遊びに出かけとる」と思われたに違いないと勝手な先入観で頭が一杯になり、急に恥ずかしくなりました。ヘルメット越しに軽く頭を下げたものの、どこか居心地が悪く、息抜きどころでなくなってしまいました。町内を軽く流した後、すぐにお寺に戻り、言い訳がましく、仕上げの外掃除を始めました。そこで初めて檀家墓地に足を運び、わざとらしく、「ご苦労様。もしかして朝からずっと、お墓磨いてる?」とHちゃんに声をかけました。「はい、10時から始めて昼食に戻りましたが、13時から今まで(17時過ぎ)」「そんなに、掃除することあったの?」「何か、始めだすとハマっちゃって(笑い)」「…(絶句)」私は大した声をかけることもできませんでした。それをよそ目にやっとお墓掃除を終えたHちゃんは、自宅に帰っていきました。その後、6時間に及ぶお墓掃除に精を出す彼女の「こころ」を推察してみて、ハッと気づきました。「磨いていたのは墓石じゃなかったんだ!」彼女は「墓石」の中に「自分」を見て自分を磨いていたのです。

 誰に言われるでもなく、自らの「こころ」を頼りに、「こころ」の声に従って行為を発動させていく。そしてその行為は無意識に他人を喜ばしている(好きではまっていく)どこか、私も似たような経験があることを思い出しました。20数年前に京都の修行道場を去る直前、境内の「草取り」に我を忘れて取り組んでいたことに。(2022年3月HP法話をご覧ください。)その時の私の姿を修行道場老大師は「草引き菩薩」と形容されました。私はHちゃんの墓石を一心に磨く姿に「墓石磨き観音」と形容せずにはいられない衝動にかられました。←今回のエピソードをHP法話の法財にしても良いとHちゃんに許可はもらいましたが、この形容は不服に思われるかもしれません。
 Hちゃんは、最初はおばあちゃん、お母さんに言われてお墓掃除を始めたとのことでした。しかし毎年しているうちに(積み重ねているうちに)自分の使命(居場所)となったと思われます。今では、ご家族の期待以上の「はたらき」を発揮しています。ついには禅宗僧侶の私まで感動させてしまったのです。彼女の姿から私は「法」という「教え、導き」は「お経」や「坐禅」だけでないことを学びました。「墓石磨き」「草引き」など、自分に向き合うことができ、夢中になれるモノなら何でも良いのです。

 積み重ねてきた自他ともに善い影響をもたらす行為(徳、功徳、法)こそが、わたしたちを未来(本来の自分、仏)に導いていきます。人様に言うのも憚る恥ずかしいことですが、私は時々、自信がなくなった時や迷いが生じた時に、自分で作成したHP法話を読み返して、自分で自信を取り戻しています。積み重ねてきた真剣な行為の足跡に自分で励まされているのです。
 まだまだ、私は「自分(仏)を信じる」には程遠い気がします。それでも、坐禅や法話を殆どしていなかった頃に比べて、「自分(仏)を信じたい」と強く感じています。自分が「灯明」(自分も周りも照らす)となるには、今しばらく「おかげさま」(法)を積み重ねなければなりません。どうか、未熟者のつまらない法話にも引き続きお付き合い下さい。