令和6年4月法話「天上天下唯我独尊」
天上天下唯我独尊
嬉しくて泣くのは 悲しくて笑うのは君の心が君を追い越したんだよ
~RADWINPS 何でもないや より
少しずつ春の陽気も感じられ始め、新年度がスタートしました。余談ですが、私は4月生まれです。進学や進級、就職などこの季節は自分の誕生日もあることから、意味もなく高揚感だけ高まっていた気がします。4月8日はお釈迦様の降誕会です。言い伝えによるとお釈迦様はお生まれになって「天上天下唯我独尊」と告げられたと残されています。
「天上天下唯我独尊」という言葉は、その文字だけを表面的に捉えた場合、とても誤解を招きやすいモノである気がします。自己中心的な意味合いに勘違いされ、禅の教えからかけ離れてしまう恐れがあるからです。私は「唯我独尊」の「独」にスポットを当てて考えてみたいと思います。
突然ですが、私は「人間嫌い」でした。誤解のないよう申し添えるならば、「人」が「好き」になれないということではありません。「人間」という言葉が表すように、私たちが「生きて」いく上で、どうしても「自分」以外の「他人」とコミュニケーションを取らなければなりません。(人と人の間で生きているから人間)私は昔から、「自分」を伝えることが苦手だったのです。そのくせ、「自分」のことを他人に理解してもらいたいという「欲」は人一倍ありました。人と関わりたい気持ちがあっても、伝える術がわからない。そのもどかしさ、ジレンマで、知らず知らずのうちに他人が怖く感じて「(独り)ぼっち」になっていました。その場の空気で当たり障りのないコミュニケーションで凌いでいましたが、こころは常に「孤独」でした。そして「孤独」を必要以上に怖れていた気がします。漠然と家族や他人という「自分以外の人」と繋がっていると思い込んで、かりそめの「安心」で自分を誤魔化していました。
ところが、今から6年前に「こころの病」を患って、様々な問題を起こした挙句に、当時の妻から離婚を言い渡されました。さらに、信頼しようとしていた人から不信感を持たれ、本当に「孤独」になってしまったのです。自分が怖れていた「孤独」になって、初めて「孤独」の意味がわかった気がしました。何の役にも立っていない、無力、無能の「自分」を認める勇気がない臆病な私。そんな「自分」に「向き合って」いなかったからこそ、他人に「自分」を伝えることができなかったのです。私は他人が怖かったのではなく、自分に向き合うことができない自分が怖かったのです。(人間嫌いの本当の意味は他人という人間ではなく自分が嫌いということでした)今なら少し理解できます。私の元を去っていった人が、何故私を見捨てていったのかを。そもそも「自分」さえも理解出来ていない私は、見捨てられて当然だったのです。
その後、どういうわけか、離れて暮らしている長男(中学3年生)が、毎月10キロの距離を自転車で飛ばして、私に会いに来てくれます。昔の私と同じく陸上競技部に所属し、昨年夏には島根県中学総体で800メートル大会新記録を叩き出し、全国中学総体(愛媛県)に出場したようでした。その自慢も兼ねて近況を楽しそうに話してくれます。長男の話を聞き、受験の相談も乗りながら、時間がくると自宅に帰っていきます。手を振り見送っていると、自然と少し涙がこぼれていることに気付きました。別れるのが悲しいのではありません。こんな、どうしようもない出来損ないの私でも「父親」と慕ってくれる長男がいることに嬉しくて仕方ないのです。「孤独」じゃなかったのです。
お釈迦様は「孤独」が、「恐ろしく、苦しい」という事実を正面から受け止めました。そして人は「孤独」を避け、「孤独」から逃げてしまう「こころ」(脳)の習性があることを「修行」の中に見出されたのです。言うなれば「修行」とは、誰にも頼らず、「たった一人」で、自分自身の(孤独な)「こころ」に切り込んでいくことです。お釈迦様は、お悟りになられる直前は仲間(他人)と共に「修行」されていましたが、最後は「たった一人」で一週間徹底的に「孤独」に向き合いました。そして行き着かれた先が「人生とは孤独そのもの」(お悟り)だったのです。私なりの理解では、「孤独」と向き合いさえすれば、私たちは自然に「生きる」ことの大切さ(尊)に気付かずにはいられないと思われます。「天上天下唯我独尊」、人生は孤独が当たり前。だからこそ(今、それに気づきさえすれば)、逆に私(たち)は世間のあらゆる人やモノから支えられ、生きて生かされる、かけがえのない(当たり前ではなく有難い)人生の真っ只中にいる。
わたしたちは自分も他人も皆、「孤独」なのです。今現在は家族や仕事や様々な人やモノに囲まれて暮らしておられると思います。しかしどれ一つとして生まれも別れ(死)も共にすることはできません。生まれるときもたった一人、死にゆくときもたった一人です。「今」は、かりそめのひと時を過ごしているに過ぎないのです。だからこそ、その「儚さ」(はかなさ)は人生に「輝き」(尊)をもたらすと考えます。私自身も「坐禅」「法話」で「孤独」に少しずつ向き合いだしてから、「家族」を含む他人がいてくれることが「当たり前」でなく「有難い」ことに気付き始めました。孤独(苦しいことや悲しいこと)が「当たり前」なら、笑いながら平然と「孤独」と付き合っていきたいものです。逆に誰かと繋がっている(楽しいことや嬉しいこと)は「有難い」のだから涙がでるほど、感動できたら素晴らしい(尊)人生になる気がします。この「こころ」(我もしくは無我)は世界中を探し回っても、唯一人、自分にしか味わうことができない大切なこと(尊)ではないでしょうか?ちなみ吉成寺HP掲載法話を読んでいただけることで、私は勝手に皆様とつながっていると思い込んで、「おかげさま、おかげさま」と毎月、感謝、感動しています(笑)