令和6年5月法話「五蘊皆空」

五蘊皆空ごうんかいくう

ノイズだらけの胸で運命を聞き分ける
dream  MUSIC IS MY THING より

 新年度に心躍らせ、期待して迎えてみたものの、こんなはずじゃなかった?と思ってしまうことはありませんか?
私個人は度々ありました。期待と不安、落胆の日々を今さらながら思い出します。表題は「般若心経」の冒頭の一節です。

 五蘊(注1)とは大胆に言い換えれば、私たち自身、人生そのものです。その「自分」は「空」(注2)であると。

 突然ですが、人生は「音楽」ではないか?と個人的に思っています。小さい頃から両親が聞いていたクラシック音楽から始まり、当時の流行歌、アニメソングなど。楽器に縁はありませんでしたが、音楽を聴くことは好きでした。ちょうど私が中学から高校に進学するタイミングでレコード(アナログ)からCD(デジタル)に移行する時期であったと記憶しています。高校入学祝に、安価なミニコンポ(小さいステレオシステム)を買ってもらいました。それを契機に私は「音」(サウンド)にハマっていきました。大人になった今でも良い「音」を聴くのは私のライフワークとなっています。今は離れて暮らしていますが、長男(高校1年生)は小さい頃、ピアノを習っており、クラシックの「ボレロ」を発表会で見事に演奏したことがありました。ピアノを楽しそうに演奏できることが羨ましくて、自分も何か楽器をしておけば、と悔しく感じたことを思い出します。

 10数年前、吉成寺から車で20分ほどの大きい寺院のお手伝いをしていた時のこと。島根県では比較的有名な観光寺院で、仕事の中心は「ご祈念」(祈祷)でした。お申込みいただいた方に本堂で一緒にお勤め(お経を唱える)するのですが、ご祈念が終わり、ある女性の方に祈祷したお札などをお渡しした時でした。「有難うございました。とても心にひびきました。何だかオーケストラを聞いているようでした。」と力強く訴えられたのです。確かに言われてみると、お勤めをする際、大磬、小磬、楽太鼓など一人で打ちながら、お経を唱えることは、一人オーケストラさながらでした。図らずも私は「楽器」を演奏していたのです。(本当はエレキギターかシンセサイザーが良かったのですが・・・)

 そもそも毎日の暮らし(人生)は「繰り返し」という「リズム」(音楽)であると思います。楽器はピアノやギターに限らず、言葉や行為も同じ気がします。楽器はそれを奏でることで、自分も他人も楽しませる道具です。同様に私たちの発する言葉や行動も、楽器と思えば、自分も他人も楽しませることができるのではないでしょうか?

私個人は、「いのち(仏)」という24時間周期の細胞活動(起きる、食べる、排泄する、活動する、眠るなど)も「繰り返し」という「リズム」も、ある意味「音楽」と考えます。しかしながら、「いのち(仏)」は、「奏でている」のではなく、「奏でられて」います。つまり「生かされて」いるのです。私たちの意識(価値観)とは関係なく(無意識)、私たちを「生かそう」としています。ですが、私たちの普段の演奏つまり、行為(意識)はどうでしょうか?きちんと「生きて」いるでしょうか?少なくとも私自身は「いのち」が私を「生かそう」としているのに対して、十分「生きている」とは言えなかったと思います。自力で「生きている」と思い上がっていた時は、「いのち(仏)」の声(音)に耳を傾けることなく、好き勝手に「音楽」を奏でていました。私たちは他(外)の「音」(世音)に振り回されるばかり、自分(内)の「音」に鈍感です。

「般若心経」という、お経の主人公は「観自在菩薩」(かんじざいぼさつ)です。一般的には「観世音菩薩」、つまり観音(かんのん)様です。「観音」とは「音」を「観察する」と表されています。私の理解では、「観音」でいう「音」とは「外」(外界)の「音」ではなく、自らの「内」(内界)の「いのち」の声(音)と考えています。

「いのち(仏)」の声(音)とは何でしょうか?私個人は「呼吸」と考えています。勿論、心臓の鼓動も含まれますが、心臓と違って「呼吸」は、意識によって「奏でる」ことができると思います。他人には聞こえませんが、自分には聞こえてくると言ってよいでしょう。「呼吸」に集中して「いのち(仏)」の声(音)を聞き分ける修行を「坐禅」と呼んでいます。坐禅は様々なイメ-ジや誤解があると思いますが、私の考えでは「自分の声」と「他人の声(世音)」の「同調」です。

 究極的には「孤独」な私たちが、それでも一人では生きていけない現実を生きています。「自分自身」に向き合って「自分の声(音)」を観察しようと思えたなら、私たち一人一人が「観音様」です。自分の声(音)に耳を傾け、それに従っていきさえすれば、それが世間の声(音)と一緒になり(観世音)、自由自在に生きていける(観自在)秘訣です。(煩悩まみれの私はノイズ(雑音)だらけで、なかなか不自由ですが・・・)

 前述した体験談で、ご祈念をお受けになられた女性の「こころ」に私の読経が響いたのは、私自身が、無意識に女性(他人)の「こころ」(声)に同調しようとしていたことは、言うまでもありません。「五蘊皆空」(注3)、人生とは楽器によって奏でられる音楽のようなモノ。様々な関わり(ご縁、オーケストラ)の中で、自分にあった(いのちに導かれる)楽器(道具)で自分も他人も楽しませるストーリーです。逆に楽しめてないのは、自分にあった楽器に出会ってないか、探そうとしていないだけ。

「音楽」は「音」を「楽しむ」ことです。私たちは皆、それぞれ、違ったスピード、リズムで暮らしています。自分の速度やテンポ(呼吸、鼓動)をわかってないと、オーケストラに参加できません。まずは他人(世間)の声より、自分の声に耳を傾けてみてはいかがでしょうか?恥ずかしい話、私の「こころ」は乱れてばかりですので、一日に数回、「おかげさま」を口にすることと、毎週土曜日の坐禅会で「こころ」のチュ-ニング(調整、調律、同調)中です。

因みに吉成寺HP掲載法話のサブタイトルに若い世代の流行歌が採用されているのは、私と長男(高校1年生)が好んで聴いている曲です。歌詞がこころに響くのは、長男が大人びているのか、私が幼いのか、わかりません。(笑)

(注1)五蘊(ごうん)とは色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)という五つの要素(私たちの身心:色、受け止め方:受、考え方:想、行為:行、意識、価値観:識)の「繰り返し」(積み重ね)で今の私たちは「自分」という存在(価値観、世界観)を維持しています。五蘊という五つの構成要素(成分)のうち、親から受け継いだ、この「身心」(色)が次に進むのは「受け止め方」(受)です。大袈裟に言えば、この時点で「運命」さえも左右する決定的な「違い」(矛盾)が生じてくると考えています。それは、どんな生まれであっても、男性であっても女性であっても、若くても、年齢を重ねていても、常に「いのち(仏)」の声(音)を意識した「受け止め方」をしているかということです。受け止め方が変われば、「想」「行」「識」という私たちの思考(考え方)、行為(言動)、意識(価値観)がすべて連動し、「人格」自体が変わってしまいます。

(注2)空とは、私たちを含むあらゆるモノはすべて、いつでも、どこでも同じ保障はなく、常に自他(ご縁)と時間の変化によって「今」(瞬間)仮に「感じて」いる存在。

(注3)五蘊皆空の意味は「私たち」の存在は「幻」であるということ。様々な「ご縁」によって、支え、支えられる相互関係であり、時間や空間の変化により、常に変化し続ける、儚くも、頼りない存在なのです。何より、「私たち」自身(色)が生まれる時代も、生まれる国や性別などの出生、つまり時間も空間も制限されて、この世に生まれてきたのです。ですから、この世に生まれて、生きていることすら、ある意味奇跡的な「ご縁」(空)であり、奇跡的な(幻のような)「ご縁」(空)こそ、「私たち」(色)なのです。※色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそうぜしき)

 「今」の私たちの「姿」(五蘊)は、「幻」(空)です。「幻」(空)と聞くと、何だか私たちの存在自体が否定されたように受け止めてしまいそうですが、この誤解(先入観)こそが、仏教、禅の教えに相反するものと個人的に考えています。