令和6年6月法話「戒」

かい、いましめ

止まるのが、怖い、ちょっと
travering 宇多田ヒカル より

 本年も気が付けば、折り返しの6月を迎える運びとなりました。吉成寺の本山妙心寺では6月18日に山門懺法会が厳修されます。本山の和尚様方が、山門の観音様に向かって懺悔さんげする法会です。

 標題の「戒」とは、一般的には「授戒会じゅかいえ注1で「懺悔さんげ注2した後に授かる仏教徒の「あかし」(戒名など)です。※「戒」の語源は「戈」(ほこ)を「止める」つまり「他人」に矛先(ほこさき)を向けない。他人を律する(管理、支配する)ことをしない、他人を非難しないことです。

 私事で恐縮ですが、吉成寺で坐禅会を始めて5年目、HP掲載法話は3年目となりました。ビフォーアフターで言うなら、何が変わったかと申しますと「暇」が少なくなりました。誤解のないよう申し添えるなら、お寺の仕事が急に増えたわけではありません。「目の前の現実」は寸分違わず同じままです。定期的に「姿勢と呼吸」と「こころ」(思考、考え方)を見直す(点検、修正、掃除)ことで、ぼやけていた「目の前の現実」がクリアになってきたのです。私個人に限って言えば、一呼吸(一瞬)一呼吸の大切さに、ようやく気付き始めたと言えるかもしれません。他人や世間の目を気にして「今」に集中していなかったことを自覚(懺悔)出来るようになった気がします。

 それまで、優先順位を下げていた、日常の些細なこと(私の勝手な思い込みでしたが)も大切であったことに今更ながら気づいたのです。朝、眼を覚まして、今日一日の中で自分が何をすれば自他ともに「生きて生かす」ことができるか?他人(他)を気にする余裕など、少なくとも私個人にあっては与えられていませんでした。今日はあそこの草が取れなかった、来週の法事の参拝人数を檀家さんに確認するのを忘れていた、他人にはどうでも良いことでも自分にとっては大事なことばかり。何もない「空っぽ」の「私」は物事の大小、優劣を自己都合で決めて、自分で迷って不安になっていただけなのです。気づけば「毎日」は、待ったなしのことばかり。余計な事を考える「暇」などないのです。
 姿勢と呼吸に集中する「坐禅」は専ら、他人(他)に向いてしまう「こころ」を自分に向ける訓練です。つまり「戒」そのものなのです。私個人は「坐禅」を習慣化できた「おかげ」で、少しずつ「自分」がわかってきたと思っています。自分が考えていた以上に「自分」の「つまらなさ」に気付いてゆくのです。「つまらない」未熟な「自分」に目を向けていくのは、正直に言いますと「辛く」「苦痛」です。その代わり、未熟な「自分」という「初心」に常に戻れるのです。「こころ」(脳)は時間の経過とともに、劣化してゆき、鮮度が落ちる一方です。わたしは今年で「吉成寺」をお預かりして20年目の節目です。個人的はあらゆる経験をさせていただいたつもりですが、20年前の修行道場の頃と変わらない「出来損ない」です。そして常に「今をきちんと生きているか」の自問の繰り返しです。

「自分」が「今」何ができるのか、何をすべきなのか?ということは、「立ち止まり」さえすれば、誰でも分かりそうなモノです。でも私たちは、なかなか「立ち止まる」ことができません。「こころ」は何もせず、放っておくと(動き放し、走り放し)、自分以外の他人(他のこと)に「こころ」が持っていかれ、何事も散漫になってゆく気がします。定期的に「立ち止まる」ことがなければ、「目の前の現実」は過去(自分の脳によって捏造された記憶)や、未来(自分に都合よい希望的観測)に歪められ、「今」が置き去りになっていきます。

 「戒」(懺悔)とは「こころ」(考える)の「一時停止」であり、「定期点検」とも言えます。本当は「有難い毎日(家族、仕事、生きていること)を「当たり前」にしてしまう瞬間の積み重ねが、わたしたちを「思い上がり」に変えてゆきます。「人生」がつまらないのは「自分」がつまらないのです。
 私たちは「こころ」の中に「矛盾」という「矛(戈)」(ほこ、攻撃力)と「盾」(たて、防御力)を併せ持っています。生きるモチベーションという「矛」は他人(他のモノ)を管理、支配しても、研ぎ澄まされません。「戈」(攻撃力)は「止まる」(刃を研ぐ)つまり、「自分」に向けられることがなければ、強く、深くならないのです。矛先を「他人」に向ける、つまり他人を非難したり、貶したりしても、自分にとって何一つ得にならないことに、私たちはどこかで気づいています。気づいていても、ほんの少しの「勇気」が出せないのです。自分自身を「考える」ことは「立ち止まる」必要があります。「立ち止まる」ことなく、自分の都合で「走り(動き)」続けていた方が「楽」に決まっています。しかしながら、車の運転で言うなら、信号や一旦停止で「立ち止まる」ことがなければ「事故」を起こし、結局自分の「得」にならず「損」しか残りません。車には「道路交通法」という「律」(外部の法)がありますが、「こころ」は外部から管理できません。飽くまで、自分の「戒」を信じて「自覚」(気づく)してゆくしかないのです。

 私自身はと言うと今日も、他人に言われた言葉に、いちいち腹を立てたり、傷ついています。でも一呼吸、立ち止まり、「おかげさま」と飲み込んでゆきます。けれども「辛い」ことは、法話の法財(記事)でもあるわけです。「苦」(思い通りにならない現実)を脳内で整理をして、文章化する、このHP掲載法話作成こそ、今の私にとって最も「立ち止まる」ことに繋がっています。個人的には、「辛抱」(辛いことを抱えて生きる)こそ、「今」をリアルに感じる「戒め」と考えています。「止まる」ことは、怖いかもしれませんが、少し「勇気」(戈先を自分に向けて)を出して「止まって」みては、いかがでしょうか?案外、昨日まで見ていた世界と違ってクリアーに見えてくるかもしれません。

注1 授戒会じゅかいえ
「戒」を授かる儀式。お釈迦様が説かれた「教え」を守るに当たって、正式に「戒」(自らの自発的な遵守意思)、「律」(他から規制された仏教規則)を授かります。具体的な「証」は俗名と異なる「戒名」を授かります。私たちは本来、生きているうちに(生前)に戒名を授かることが望ましいのですが、「授戒会」という儀式が一般に行き渡っていません。実際は亡くなった時に「授戒」を菩提寺(お寺)の和尚様が戒師(戒を授ける師匠)となって執り行います。救済措置として故人に「戒名」を授与しているという「現実」があるのです。

注2 懺悔さんげ
大胆に意訳すると「ごめんなさい」(御免なさい)ということ。「懺」の語源は「堪える、忍ぶ」です。「(私の犯した)罪を堪え忍び許してください」という「許しを請う」意味。「悔」は悔やむこと。懺悔の最も大事な、条件、要素は、認めたくない「自らの過ち、間違いを自覚」し、自らの内側と外側(他人)に「告白」すること。そもそも私たちは自分の非(過ち、、間違い)を認めようとせず、覆い隠そうとしてしまうので、「認める」ことすら「勇気」(覚悟)が必要なのです。