令和4年4月法話「天上天下唯我独尊」

令和4年3月24日

~ あんたの価値観なんてニセモノだ

(ヨルシカ レプリカントより)

 桜の見頃も迎え、いよいよ春本番のようです。如何お過ごしでしょうか。不安と期待が入り混じる季節ですが、わたしたちはいつも「主観」(人やモノに対する見方、考え方、世界観すなわち自分だけの世界、思い込み)で物事を判断しています。同じ「桜」を見ても、思い通りに生きることができ「こころ」が安定している人が見れば「綺麗、美しい」と映ります。しかし思い通りに生きることができず「こころ」が不安定な人が見れば、どうでしょうか?
4月8日はお釈迦様がお生まれになられた「降誕会」です。

 お釈迦様は生まれてすぐに7歩歩いて右手を天に、左手を地に指差し「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと言われています。この逸話がホンモノかどうかという問題ではなく、お釈迦様の生涯を通してデフォルメされた「教え」と言えるかもしれません。この言葉は一見「自分だけがこの世界で一番尊い。」と誤解されがちです。「唯我独尊」とは一体どういうことでしょうか?冒頭で触れましたようにわたしたちは「主観」で世界を見ている以上「好き嫌い」の感情で物事を判断しているという事実から逃れられません。この言葉はもちろん、「主観」だけの表面的な教えであるはずなく、わたしたちの「主観」と他人の世界観「客観」を同時に表したモノなのです。そして、この言葉のポイントは「我」と「尊」にあると私は考えています。「我」とは、わたしたち自身、わたしたちの見方、考え方です。「尊」とは尊い、尊敬する、大切、大事にするという意味になります。「唯我独尊」とは2500年の時空を超えてお釈迦様から投げかけられたわたしたちへの現実問題なのです。「我」、「尊」とはいったい?

 私は今、島根県にある「吉成寺」というお寺をお預かりしていますが、20数年前は山口県の大学を卒業後、市役所に勤務していました。勤め始めて3年目のある日、母親から自分の実家(生家)であるお寺(吉成寺)の跡継ぎになってほしいと連絡がありました。といっても安定の公務員を辞めて不安定なお寺に方向転換するのは躊躇します。しかしながら実母の生家ということもあって3年悩んだ末、その話を受け、市役所を退職。出家しました。その頃の私は「ご縁」があって出家しただけで、何の志もありませんでした。つまり「本物」の価値観にまだ出会ってなかったのです。京都にある専門道場での修行が始まり、緊張の毎日でしたが、その道場の老師(修行僧の指導者)に声をかけていただいた時のことです。話が終わり、老師に「低頭」しました。「低頭」とは合掌したまま、深く頭を下げることです。

禅宗寺院では修行僧も老師も「低頭」することが常識なのです。そして私が頭を上げたとき、老師はまだ頭をお上げになっていませんでした。私は慌ててもう一度頭を下げ、老師が頭をお上げになるのを確認して頭を上げました。まだ道場に入門して間もない頃のことでしたが、とても衝撃を受けた記憶があります。なぜなら出家前、サラリーマンの頃の私の常識では立場の低い(卑しい)者が高い(尊い)者に頭を下げることが当たり前だったからです。それが、道場だけでなくあらゆる人から尊敬されている老師が入門したばかりの新参者に対して、低く、長く頭を下げているではありませんか。

この時、自分の未熟さ、傲慢さが恥ずかしかったと同時に「本物」の価値観、つまり人のあるべき姿に出会えた気がしました。それは後から気付いたのですが、人生を大事にすることは自分を大事にすることであり、「自分を大事にする」ということは「他人(他のモノ)を大事にする」ことに直結しているという事実でした。実際、その後私を大事にしてくれた老師を大事にしないわけにはいかないのです。つまりわたしたちには自他ともに大事にせずにはいられない「尊い」モノが備わっていますが、それを自覚して「他人(他のモノ)」を大事にして初めて「本物」の現実になるのではないかと思います。

 「我」はわたしたちのちっぽけな「主観」(見方、考え方)ではなく、「無我」(主観を超え客観化された、あるべき、わたしたちの見方、考え方)を意味するものです。「尊」つまり大事にするとは、自分が自分をこころから大事に思うこと。わたしたちは一人ぼっちで生まれてきたわけでなく、生まれたときから死ぬまで数えきれないほどの人やモノに関わりながら生きていきます。誰が欠けても、どれが欠けても「今」の私たちにはなり得ません。ですから、「自分が大事」とは「他者(人・モノ)も大事」と同義なのです。得てしてわたしたちは「自分だけは大事にされたい」という主観ばかり大きくなりがちです。しかし、その思いが強いほど、誰からも大事にされません。お金をほしいと思う人ほど、お金は逃げていき、尊敬がほしい人ほど侮られます。つまり独りよがりの「主観」は所詮「偽物」なのです。

相手を大事したとき、必ず、その(良い行為の)報いは、自分が大事にされるという結果、「本物」になって返ってきます。「天上天下唯我独尊」、お釈迦様は自分がこの世で一番大事、大切であるのは自分であることを、曖昧にせず、生涯を通して徹底的に「自分を大事」にすることを追求されました。その結果、中途半端な大事、つまり自分だけを大事にする(偽物)だけでは自分さえも大事にできないとお悟りになられたのです。サブタイトルはヨルシカというアーティストのレプリカントの一節です。この後「思い出でだってニセモノだ。こころは脳の信号なんだから」と続きます。自分の都合で塗り替えられたり、改竄された価値観や記憶は所詮、脳の防衛本能による幻想(レプリカント偽物)に過ぎないと聞こえました。

「おかげさま」を一日一回、姿勢と呼吸を調えて口に出していますか。「おかげさま」を大事にする人は「おかげさま」から大事にされます。「おかげさま」を侮ることなかれ、「姿勢」と「呼吸」も侮ることなかれ、「おかげさま」の中に、そして「姿勢、呼吸」の中に人生の答え(本物)があるのですから。