令和4年6月法話「法輪転ずる処食輪転ず」
~目先のことだけ気にしていませんか?
そろそろ梅雨入りを控え、湿気に悩まされる季節となりましたが如何お過ごしでしょうか?6月は21日に24節気の夏至を迎えます。太陽が地球に最も接近し、一年で最も昼間が長くなる日です。今月の表題は「法輪転ずる処食輪転ず」です。(仏の)教えがよく行き渡れば、即ち物事の道理が正常に機能するとき、命を保つだけの食事は絶えることがない、という意味になろうかと思います。
この語は修行時代、韋駄天諷経(道場の台所、炊事場を司る神様)で回向していました。わたしは、修行に一旦区切りをつけて自坊(吉成寺)に戻るとき、この語を胸に刻んだ記憶があります。例え、経済的に恵まれなくても、修行通りに、身をもって仏の教え(禅の教え)を示すことができるなら、今日を生きる食べ物には困ることはないだろうと。
私のお預かりしている自坊、吉成寺というお寺は檀家数も少なく、専業では維持が困難なため、先住職から兼業を勧められていました。修行から自坊に戻って、最初の10年ほどは、ご縁があった、他のお寺にお手伝いさせてもらっていました。しかしその機会もなくなってからは、ちょっとした決断を迫られました。ハローワークで求職し、パート副業で小銭を稼ぐべきか?当時は結婚をしていて子供も3人いましたので、当面の生活をどうすればよいか頭が一杯で余裕がありませんでした。ですが、どこかで「法輪転ずる処、食輪転ず」という言葉が頭から離れず、結局、お寺専業でやっていくことにしました。しかし、すぐに決心の効果が現れるはずもなく、どうやって食べていくかという人生の大問題に直面して行き詰まってしまいました。そして行き場を失った思いが頭を占領し、こころの病(双極性障害)に悩まされるに至りました。その過程で様々な問題を起こし、それに伴った代償も大きいものとなりました。そういった経緯を乗り越えて、「今」ようやく決心の効果が現れていることを実感しています。
お寺の「維持」や目先の生活ばかりを気にしていた頃は、自分が禅宗僧侶であるにも関わらず「坐禅会」さえも満足にしていませんでしたし、お金に直結する「法話」しか頭にありませんでした。今は自分の生活(食輪)を軸にするのではなく、布教(法輪)を軸に暮らしているつもりです。多くのこころの傷を負いましたが、そのおかげで、「今」すべきことに専念できるようになった気がします。少人数ながらも「禅」を信じる仲間と一緒に毎週坐禅会をさせていただき、HPでこうして法話もさせていただくようになりました。頭の中は常に「布教」が回転するようになって、それを求める人も少しずつ出てきました。何とか「おかげさま」で「今」を生き、生かされております。修行道場を一旦引いてからは不安ばかりでしたが、ようやく、俗世間の真只中にありながら俗世間に振り回されず、「禅宗僧侶」として修行を続ける覚悟ができた気がします。そういえば、京都で修行中に老師(修行僧の指導者)から度々、「お布施以上の法施(教え:人々に充分な安心を与えること)ができないと我々は地獄行きだ!」と言われていたことを今さらながら思い出しました。つまり法輪を転ずること怠れば、食輪も転じない、という恐ろしい言葉です。
私は小さい頃、「夏至」という言葉を聞いたとき、なぜ「夏が至る」のに、一年で一番暑くないのか不思議に感じたことがありました。しかし後になって、太陽であっても地球を暖めるのに2ヶ月はかかるということを知りました。私たちの「意志」や「行為」も始めてすぐに影響は現れず、時間差で後になって現れてきます。私は出来が悪いため、自分が本当にすべきこと、したいことに気づくのに20年以上かかりました。目先のことばかり気にしていたら、私たちが「(今)何をすべきなのか、どうなりたいのか」という根本からどんどん逸れてしまいます。時には傷つき、痛い思いをすることはあるかもしれませんが、自分の本当にすべきこと、したいことは、一時の繁栄に目がくらんだり、世間や周りの目を気にして、流されてばかり(無傷のまま)では気づくことはできないと思います。食輪(食べていける)は求めるモノ(目的)でなく、ついてくるモノ(手段)です。お金(食べる)の為に「生きている」のではなく、「生きる」為にお金が必要であります。「生きる」とは「生かされている」と同次元で、自分が「生きる」ことで誰かが「生かされたら」(法輪が転じれば)必ず生きて(食べて)行ける(食輪が転ずる)ものだと思います。私たちが真に自分のすべきことに気が付いて、それに専念できれば、自然に食べていけるとことでしょう。「おかげさま」を信じて「あきらめず」続けていきましょう。必ず私たちの「本当の思い」に気づかしてくれ、迷いや不安に満ちた「こころ」が好転するに違いありません。