令和4年7月法話「 山門施餓鬼会」
~世界なんて元々狂っているのだから(新海誠監督「天気の子」より)
梅雨も終盤に差し掛かり、徐々に夏本番に向かっていますが如何お過ごしでしょうか。
7月は中旬から、それぞれの禅宗寺院で「山門施餓鬼会」が厳修されます。お寺の年中行事で一番檀家の皆様がお参りになる先祖供養です。
山門施餓鬼会では、通常お寺のご本尊様がおいでになる真前を拝むのですが、外に向かって精霊棚を設え、御供を捧げ、拝みます。これは、せめて年に一度は(何回でも良いのですが)誰からも供養されることなく餓鬼道に堕ちて苦しんでいる御霊を供養するご縁をご先祖様と私たちに結んでいるのです。普段私たちは自分や自分のご先祖様だけの供養ばかり考えています。しかし「先祖供養」の究極は私たちが「生きている間」に仏になることです。自他ともに供養し、供養されるのが理想ですが、現実は綺麗ごとばかりではありません。忙しい日々の暮らしに追われ自分のことだけで精一杯ではないでしょうか?
7月、修行道場では夏季最後の坐禅強化期間が終わると、次期準備が始まると同時に天候に関係なく、決まった日に托鉢に出かけます。京都では托鉢規定が設けられていて、連鉢といって3人以上が一組(一列)となり、街中を大きな声で「ホ-(法)」と発しながら歩いてゆきます。すると、その声を聞いた方々が玄関先まで出てこられ、わたしたちは目の前まで近寄り、深く頭を下げ、お布施を受け取り、最後にまた深く頭を下げ、再び托鉢に戻ります。しかし雨の日は、雨音にわたしたちの声がかき消され、なかなかお布施をされる方々の耳に届かないようです。ひたすら、声を張り上げて托鉢を続けます。そして誰も出てこられない時間が長くなると、つい「自分がこれだけ一生懸命声を出しているのに、なぜ出てきてくれないんだ」不満が顔をだします。そしてその思いは雪だるま式に膨れ上がって、どんどん托鉢のモチベーションを下げ、声を自然と小さくしていきます。しかし、ふと道場の先輩から教えてもらった言葉が頭をよぎりました。
「托鉢時の大きな声は、坐禅で鍛えた腹からの声だ。その声に心を動かされて、施主はお布施をされるのだ。」
わたしたち禅宗僧侶の看板は坐禅で養われた腹式呼吸に裏付けられた太く響く「声」なのです。ですから「声」が細く小さいことは「わたしは修行を真面目にしていません」と言って歩いているようなもの。それに気づかされて以降は安易にお布施を求める醜い自分(餓鬼)を愧じ、「ホ-」ひとつに成り切ろう努めました。すると不思議なもので、気付いた時には、玄関先に立って私の歩みを待つ、年配のご婦人が目に入りました。無心で(本当は飛び跳ねるほど嬉しかったのですが)お布施を受け取り、深く深く頭を下げ、托鉢を続けました。
その日は私の看板袋(お布施を預かる頭陀袋)にはその方のお布施だけでしたが、なんだかとても満たされた気持ちになったことを思い出します。つまりお布施がいただけない、とか認めてもらえない、といったちっぽけな思い、計らいに足を停めず、ひたすら自分自身に向き合うからこそ、そこに感動が生まれるのではないでしょうか。托鉢する修行僧と施主が共鳴しあうと実感したひとときでした。
わたしたちは誰もが思い通りに暮らしてゆきたいと願っています。同様に評価されたい、認めてもらいたいと考えています。4月法話「天上天下唯我独尊」でも触れましたが、「自分だけが」評価されたい、認めてもらいたいという思いが強すぎると、往々にして評価されず、認めてもらえないものです。なぜならそういった「自分だけが、自分さえよければ」という思いを手放さない飢えた「餓鬼」の姿に見える私たちは醜く、避けられて当然だからではないでしょうか。何よりそんな醜い自分はわたしたち自身の姿ではないと自分自身を直視できないことも事実です。しかし見たくない自身の醜い姿(餓鬼)を認めて、一歩ずつ赦していくことが大切な気がします。
心理学の一説で昨今のインターネットやSNSの普及で注目を浴びている「承認欲求」という言葉があるようです。認められたいと願うこころは生きるモチベーションで誰しもありますが、それに拘り過ぎていないかどうか、自分を見失ってないか気が付けるかが、満たされるかどうかの分かれ道となります。自分を自分で(他人からでなく)承認できれば、必要以上に世間を気にすることはなくなると思います。
サブタイトルは数年前上映された新海誠監督のアニメーション「天気の子」から引用したセリフです。異常気象の原因を作ってしまったと責任を感じている主人公を励ます言葉ですが、わたしは「世界なんて元々、自分も皆も餓鬼なんだから」と聞こえました。生きていくということは綺麗ごとよりも、汚く、醜く、目をそらしたくなるような現実(醜い自分)が多いことを、まず勇気をもって認めること。お釈迦様はお悟り開かれた最初のお説法(初転法輪)で「生老病死苦」と明らかにされています。(四諦八正道)生きていくこと自体が狂った世の中を何の頼りもなく歩み続けていくようなもの。そもそも安心安全な場所も時間もないことを認めてしまった方が「こころ」が軽くなりませんか?そうそう、自らの醜い「餓鬼」こそが心の「闇」(かげ)ですから「おかげさま」をこころに思い、口にするのは、まさに「施餓鬼」かもしれません。