令和4年8月法話「お盆(盂蘭盆会)」

~人を呪わば穴二つ?

 夏本番となり、毎日汗で服が乾く暇もない日々が続きますが、如何お過ごしでしょうか。8月は中旬から「お盆」でご先祖様をお迎えする時期となりました。

 「お盆」はサンスクリット語でウランバ-ナの音写「盂蘭盆うらぼん」を指しており、直訳は「逆さに吊るされた苦しみ」とされています。今日のお盆にまつわる伝統行事には諸説あり、各家庭や地域によって様々な形で、ご先祖様をお迎えしています。しかしながら大元を辿れば、お釈迦様の十大弟子の一人、目連尊者が餓鬼道に堕ちて苦しんでいた亡母をお釈迦様の教えで救済したことが「先祖供養」の起源になっています。

 私にも今年90歳になる実母がおります。母親は私の兄が20年前に膵臓癌で他界してからはしばらく、実父と二人暮らしをしており、その実父も10年前に他界してからは、気ままに一人暮らしています。実はこの母親の存在こそが、私の間接的な「出家」の原因ではないかと考えています。それは出家前、過去の私では母親の考え方を納得できず、「家族」として接する限界を感じていたからです。問題は母親なのか、自分なのか、その答えを知りたいと思っていたことが出家の後押しにつながったと思われます。

私は幼少期から母親の考え方に「この人は本当に子供の事を愛しているのであろうか?」と疑問を持つことが多く、意見が食い違う度、声を荒げて喧嘩した経験も少なくなくありませんでした。母親は思い込みが強く、自分が「こうだ」と思ったことを曲げませんでした。「こどもの為」と口にしながら、様々な価値観を強要してきました。それが、私や家族にとって都合が良い場合は問題ありませんでしたが、都合が悪くなった場合は大変でした。特に物事をはっきり言う私とは、言うのも憚るような、醜い親子喧嘩で家族崩壊寸前だったことも多々あったことを思い出します。わたしは子供ながら、母親の考え方は飽くまで、たくさんある選択肢のうちのひとつであり、自分は自分の考えがあるという内容を繰り返してきましたが、それを受け入れることはありませんでした。母親は自分の見たこと、聞いたこと以外は認めようとしませんでしたし、何より世間体や迷信を必要以上に気にしていました。私の方も、昔から目の前の現実(家族)よりも、自分の考えを優先させる母親が受け入れられませんでした。私は母親という存在を、母性本能があり、家族や子供を包み込むように受け入れるものであると「理想の母親像」にこだわっていたのです。つまり母親が私を受け入れないのと同様に私も母親を受け入れられずにいました。

数年前、母親と決定的な喧嘩が起こり、しばらくは、彼女の家を訪問することを控えていました。しかし、どんな親であっても親であり、家族であることには変わりありません。少し頭が冷えた頃に、自炊している私が多めに作った、おかずをタッパーに詰めて、声をかけずにそっと居間に置き、古新聞回収やごみ出しをして何も言わず帰りました。すると二日後同じく、声をかけず、おかずを置こうとすると、テーブルに空のタッパーとメモ用紙がありました。メモには私にしてほしいこと(自分の代わりに買い物や支払いを依頼)が書いてありました。(おかずのお礼や感想が先じゃないか?と心の中でツッコミを入れましたが)以降、声を掛けないまま、おかずを入れたタッパーをテーブルに置いています。そして母親が私にしてほしいことを書かれたメモに従って、母親の代わりに行う、それ以外はごみ出し、古新聞回収、庭木の手入れ、草刈をするという無言のコミュニケーションが続いています。今時点では残念ながら母親と接する機会が少なくなった分、笑顔で会話するまでにはなっていません。

 私は彼女を変えるだけの力はありませんが、何とか変えてやろうと思いあがっていた時に比べて、こころが軽くなりました。親や家族を選ぶことはできません。自分の考えに固執する母親を救ってあげよう、変えてあげようとするのではなく、そのままの母親を受け入れようと努めることが、今の私の「親孝行」(先祖供養)でした。人を変えることはできませんが、自分を変えることはできます。般若心経でいうところの「顛倒夢想てんどうむそう」とは、人を変えることができると考え、自分を変えないことです。わたしは長い間、自分が正しく、世間体や迷信を信じる母親が間違いであり、彼女を変えなければならないと、「逆さ吊の苦しみ」を自覚できずにいました。目連尊者も餓鬼道に堕ちた自分の母親がまさか生前、子供である自分以外の他人に対して、ひどいことをしてきた報いで餓鬼道に堕ちたという事実はにわかに信じられなかったものだと思います。(盂蘭盆経)

しかし、深いところでいえば、目連尊者の言動自体が、彼女を慳貪のこころにしてしまった一面も否定できないと思います。同様にわたしの場合も、受け入れられない母親をわたし自身の言動がそうさしてしまったのでしょう。つまりこちらが相手を信用(受け入れる)するからこそ、相手もこちらを信用するのだと気付かされました。相手を受け入れない場合は自分も相手から受け入れられない。相手を益するときは自分にも益があり、相手を害するときは自分も害せられる。「人を呪わば穴二つ」という言葉は呪術やホラー映画の基本であると同時に仏教の基本である「因果応報」そのものです。頭ではわかっているつもりでしたが、実践は甚だ難しいものです。だからこそ自分の受け入れられる「ひかり」に対して受け入れられない「かげ」を「おかげさま」と拝んでいくことの実践を続けなければなりませんね。