令和4年9月法話「彼岸会(秋)」

~皆が言う「普通」ってさ、実際は「真ん中」じゃなく「理想」に近い
(perfume Dream Fighterより)

 残暑まだまだ厳しく、寝苦しい日々が続きますが、如何お過ごしでしょうか?9月は23日に「秋分の日」、秋のお彼岸中日を迎えます。

 同じ「彼岸中日」でも「春分の日」は国民休日法では「自然を称え生物を慈しむ日」、「秋分の日」は「祖先を敬い亡くなった人を偲ぶ日」と法律上では違いがあります。また「春分の日」はこの日を境に昼が長く、夜が短くなり、「秋分の日」は昼が短く、夜が長くなります。つまり季節的に「春分の日」は「動」(ひかり)に向かい、「秋分の日」は「静」(かげ)に向かうとも言えます。いずれにしても暑すぎ寒すぎずと、ちょうど「真ん中」の良い時節であるわけです。そして私たちの日々の暮らしでも、どちらか両側に偏りすぎない「中道」の考え方、行いが最も、彼岸(安心)に近いとされています。

 私が京都の専門道場で修行して二年目に「典座」と呼ばれる台所、食事担当となった時のこと。サラリーマンから出家した私にとって、多少の自炊経験はあるものの、本格的に他人の分まで食事を作ることは初めてでした。それに加え、ここは禅宗の専門道場。当然ですが「精進料理」に限られます。まず、基本的な食材は道場で自家採種した野菜、供養されたお米、供養された調味料(味噌、醤油、塩)のみです。しかも坐禅強化期間など特別な日以外は基本的に「出汁」はなし。これで「美味しい料理を出せ」という至上命令。最初は先輩から数品、刻みや調理法など教わりましたが、後は自分で、坐禅堂で一年修行させていただいた頃の料理を思い出して工夫せよ、と告げられました。

以降、現場で献立を考える試行錯誤の日々が始まりました。毎日、刻み方や味付けなどの調理法、後片付けの仕方など事細かに先輩から文句を言われながら、修正調整していきました。半年ほど経過して先輩からの小言?が収まったある日。道場の休息日に「点心」(信者さんのお宅にお勤めに行き、食事の供養も受けること)に呼ばれ、烏丸御池の蕎麦屋さんに出向きました。先祖供養のお勤めが終わり、食事が出されました。食事作法の読経を済ませ、目の前の「木の葉丼」(油揚げとねぎなどを甘辛く煮込み、卵でとじた丼)を口にした時でした。

「ん?この丼の出汁はかつおと昆布の合わせ出汁で、微量ながら砂糖とみりんで、くどくならない程度の甘さが加えられている・・・」

瞬時に出汁と調味料の加減を「舌」が判断したのです。それもそのはず。時々信者さんの供養で、世間の料理を口にすることはあっても、日々の食事は出汁なし、砂糖やみりんなどの「甘さ」もなし、一般的には「美味しくない」料理なのですから。

わたしは、この時「おいしい」という感覚の意味を知った気がします。濃い出汁、そして「美味しい」と強く感じる「甘さ」は、一般家庭の料理では「当たり前」になっています。「濃い味付け」に慣れた「味覚」(舌)は実は「濃い味付け」に偏っているのです。偏っているとは刺激が強い側に傾いていると言えます。これは何も「味覚」に限ったことではありません。眼から入る「視覚」、耳から入る「聴覚」、鼻から入る「嗅覚」など私たちの「感覚」はすべて自分の「好み」に偏っているのです。

 わたしたちは普段、自分が「偏っている」とは思っていません。むしろ、「真ん中」で「普通、平均的、まとも、常識的」とすら思っています。しかし実は「好き嫌い」という「主観」に方向づけられた「偏り」で物事を判断、そして行動してしまっているのです。「わたしの普通」と「あなた(他人)の普通」は決して同じではありません。ですから「自分は自分の好き嫌いに偏っている、傾いている」ことを前提に(一度立ち止まって)物事を判断することが「中道」の入り口である気がします。わたし自身も「典座」という食事担当を経験するまでは、自分(の味覚)が偏っていることなど微塵も意識したことがなかったのですから。「中道」とは自分の好き嫌いに基づく「主観」に拘らず、相手(他人)の客観にも振り回されない、主観と客観のバランスと言えます。修行の世界も「把住」と「放行」と言って緊張(締める)と弛緩(緩める)のバランスが大事とされています。厳しすぎも続かない。とは言えわがままでは修行にならない。わたしたちは自分の「主観」から離れることはできません。ですから「彼岸」は、せめて自分のすることが、誰かに喜んでもらえる(「良い」影響を及ぼす)ことを志すことだと考えます。

わたしたちの「普通」とは、「普通に」自分も他人も「大事にする」ことではないでしょうか。案外、私たちの理想の世界(彼岸)は「普通」なのでしょうね。お釈迦様のお説きになられた「四諦八正道」とは不安、迷い(此岸)から安心、悟り(彼岸)に到るには「八つの正しい生き方」があるとし、それら全てにおいて二元論(大小、美醜、貴賤、貧富、老若男女など)の両側に偏らない「中道」が肝心要とされています。つまり「正しい」とは「偏らない、傾かない」真っすぐで真ん中を進むことを意味します。独りよがりの「主観」が「ひかり」なら思いやりの「客観」は「かげ」とも言えます。毎日「おかげさま」を繰り返し、少しでもわたしたちの「主観」が「客観」に近づき、自分も他人も一つとなって、等しく彼岸へ渡れますように。