令和4年10月法話「達磨忌 達磨『無功徳』」

~リアルをカラフルに超えようぜ ado「新時代」より

 暑さもようやく一段落となり、過ごしやすい時節となりましたが如何お過ごしでしょうか?10月5日は禅宗のご先祖様(お釈迦様からの系譜では第28代祖師)、達磨大師のご命日です。達磨大師は禅宗のお寺ではご本尊様の右隣にお祀りされている、とても大事なお方です。なぜならお釈迦様の生涯を通した教えの中で、「坐禅」という「修行」(実体験)を、殊更大切にされたからです。

 達磨大師の生涯は謎に満ちていますが、今日多くの伝記が残されています。その中から今回は表題の「達磨無功徳」についてお話したいと思います。達磨大師は南インド国王の第三王子としてお生まれになりました。第27代祖師、般若多羅禅師にその類まれなる資質を見込まれ、出家得度、修行の末、お悟りを得られ、第28代祖師となり、国内布教教化の後、中国に渡られました。時の中国皇帝、武帝との問答で「私(武帝)は即位してから多くの寺院を建立し、写経もしてきた。その功徳や如何に」達磨大師は「無功徳」と返答されました。仏教のシンボルとも言える寺院建立や写経に功徳がないのでしょうか。その真意とは?

 吉成寺から車で数分の場所に大きな企業の工場があります。コンデンサー製造が主力の会社で、わたしたちの日常生活に欠かせないスマートフォンやノートパソコン、自動車の電気部品の需要が高まっているため、ここ数年、工場の増設、職員駐車場の拡張など成長が目覚ましい印象です。よって出勤時間帯はかなり多くの車が行き交います。そして職員駐車場は幹線道路を横断歩道で渡って会社入口の向かい側にあります。職員の方々が歩道を往来するたび、幹線道路を通行する一般車両は一時停止します。わたしは、この幹線道路を初めて通行したとき、急いでいるのに、信号機もない横断歩道で一時停止することに不満を感じていました。しかしほとんどの車が歩行者を見ると、車を停めているのです。そういった日々がしばらく続くと、わたし自身も横断歩道に差し掛かると歩行者に気をつけるようになりました。「おかげさま」で、わたしは今でもあらゆるところで、横断歩道前に立つ歩行者を気にする習慣が身についた気がします。しかしながら、当初は車を停めたとき、歩行者からの反応に一喜一憂している自分がいました。車を停めると大概は頭を下げて謝意を示されるのですが、こちらを一瞥することなく何の反応もない時はイラッとすることもありました。無意識に歩行者から感謝されることを期待していたのです。そういった自分に振り回されないよう、車を停めても歩行者の表情を見ないようにしていたことが続いたある日のこと。小学校近くの横断歩道に立つ小学生の女の子が目に入りました。車を停め、横断歩道を渡ったのを確認して車を発車させると、女の子がこちらに深々と頭を下げている姿が目に映りました。一瞬、あまりの丁寧なお礼の姿に二度見をしてしまいました。そしてバックミラーを見ると、ずっとこちらが走り去るまで見送っているではありませんか。わたしはこの時嬉しかったのと同時に、それまで、車を停めたときに無意識に感謝を期待していたことが恥ずかしくてたまりませんでした。わたしはこの女の子の無心にお礼を示す「功徳」に「無功徳」を教わった気がします。

 綺麗ごとばかりではない現実の暮らしの中、私個人を振り返ったとき、見返りを期待してばかりの人生でした。そもそも見返りを求めるこころ(煩悩)こそが私たちの生きるモチベーションであり、それゆえに不安になり、迷いが生じます。ですから私たちの一瞬一瞬(一呼吸)の行為、言動そのものが、目の前の現実に真っ直ぐ向き合っているか?見返りの有無に縛られない真心であるか?その問いかけの積み重ねしかないと思います。一瞬でも気を抜く(油断する)と見返りを求めるこころに傾き、縛られ、支配されてしまいます。わたし自身も「横断歩道で歩行者がいた時、一時停止する」といった行為、行動自体は善行(「功徳」がある)と知りながら、それに伴う「副産物」である「御礼」を求めるこころが「無功徳」であったと言わざるを得ません。

 武帝がなした「寺院建立」や「写経」自体は無論、「功徳」があります。しかし功徳を得ること(見返り)が目的とされた行為はどんな行為も「清浄」(善)から「不浄」(偽善)に成り下がってしまいます。達磨大師に自分の功績を評価してもらいたかったのでしょうか。武帝はその見返りを求めてしまう「自分」(こころ)に気が付くことができなかったと思われます。この問答を思い起こすたび、出来の悪いわたしは自分自身が「武帝」そのものであるように感じます。

 サブタイトルはありふれた、つまらないリアル「現実」をカラフル「理想」に変えるのはいつだって「自分」であると聞こえました。それは自分も他人も喜びとなる「良い」行為(徳行)を志し、積み重ね、続けていく。そしてその見返りを期待してしまう(醜い卑しい)現実を越えていくことではないでしょうか?「功徳」を志しながらも「功徳」に拘らない、縛られない。目先の見返りにこだわるのが「自分」(ニセモノ)か、見返りに拘らないのが「自分」(ホンモノ)か。日々の暮らしの中で常に生じる自問自答のような気がします。

 見返りに拘らないホンモノの「自分」は見えていない(かげ)だけで、必ず「こころ」にいます。「おかげさま」を信じて、「徳」(自分にも他人にも利益がある行為)を積み重ねていきましょう。しつこいようですが、その果報(ご利益)を期待(拘る)するなら、台無し(無功徳)ですよ!