令和5年5月法話「五蘊皆空」

五蘊皆空ごうんかいくう

何もできないのに今日が終わる

ヨルシカ 詩書きとコーヒ- より

 寒さ暑さを繰り返しながら、五月となりました。年度替わりになって環境が変わったお方は、慣れてきましたでしょうか。わたし自身のことを言いますと、若い頃から進学や新学期、就職、新年度といった節目には、決まって期待もあるものの、なかなか上手く周囲に合わすことができませんでした。不安をずっと抱えた日々が続いたことを思い出します。不安が様々な体調の不良につながれば「五月病」(医学的には正式名称ではない)に到るようです。表題の「五蘊皆空」はお経「般若心経」の一節です。

 「五蘊」とはわたしたち自身(こころ、主観、価値観、世界観、パラダイム)のことです。色受想行識という五つの要素が作用しあうメカニズムで私たちの考え方、行動パターンが形成されていくプロセスと言えますが、それらは皆「空」であると。私たちがどんな主観を抱こうと世界はそれとは関係なく回り、時間もただ過ぎていくだけという刹那的な見方もできます。しかしわたしは、自分の「こころ」(脳)のメカニズムに気が付けば、世界が変わると言いたいのです。

 (突然ですが、)私に取り柄と言えるものは、ほとんどないのですが、唯一自慢できるものがあります。「草引き、草取り」(が好きなこと)です。読者の皆様からの嘲笑いが聞こえてくる気がしますが、どうでしょうか。昨年3月HP法話「到彼岸」と重複しますが、かつて京都の修行道場を去る直前、自発的に休憩時間を草取り奉仕に当てたことがありました。何もない空っぽの自分にでも役に立てることを考えた結果が「草引き、草取り」でした。自分で見つけた、私本来の主体性(仏)です。誰でもできる、いつでもできることを自分に偽りなく、実践できることが「真実」(本物)、頭の中だけ、もしくは口先ばかりで実践していないことが「虚偽」(偽物、幻)であると。


 その後吉成寺をお預かりすることになり、「住職」という役職を与えられました。同時に修行道場とは違って、様々な他寺院のご住職方、檀家の方々、地域の方々、家族、親戚と関わるようになりました。しばらくは寺院経営、人間関係が中心の暮らしとなり、どこか浮足立つ日々が続いた気がします。修行道場で一度は見えたはずの「彼岸」(安心)が、すっかり「此岸」(不安、迷い)に変わってゆきました。その後、多くの苦難を体験しまして(詳しくは先月までのHP法話をご覧ください)住職就任から20年近く経過した「今」ようやく修行道場の頃に戻った気がしています。「草引き、草取り」に毎日精進できるようになりました。自分が自分で迷いを生んでいた以前は、「草引き、草取り」を無意識に「雑事」として優先順位を下げていました。つまり、私(色)がお寺の住職という役職を与えられたことで、様々な、「こころ」の反応を引き起こしました(受)、その反応に無意識に囚われ(想)、自分の考える住職はこうであろうという先入観、固定観念に基づく言動を発します(行)。やがてそれは繰り返し、積み重ねの中で習慣化され、記憶や知識として「脳」の記憶メモリーに蓄積され(識)、何もないはずの「私」が実体化され「迷い、不安」を自らが生み出していきます。そして、私の場合、「迷い、不安」が「こころ」のキャパシティ(物事を受け入れる能力)を超えてしまいました。望まない「病」という形で表面化して、初めて「五蘊」のメカニズムを体感できたのです。わたし(色)は本来無一物であるのに、自分で勝手に様々なモノに惑わされ(受想行識)、あるはずもない幻を掴み取ろうとしていました。

余談ですが、修行道場では老大師(指導者)からよく、こんなことを言われました。「われわれは寺の「住職」という「職業」についているのではない。禅(無、空)を行じ、常に離さないよう努める「生き様」を示してゆく「住持」である。だから住職と名乗らず住持と言いなさい。」

 般若心経は大般若経600巻、文字数約300万に及ぶ膨大な内容を276文字に圧縮した仏教の真髄と言える「お経」です。その冒頭で「五蘊皆空」(私たちが自分と思っている自分(自我)はすべてこころ(脳)が映し出しているもの。本来は与えられた世界(ご縁)の中に、無一物(何もない)の私(無我)がいるだけである)そして「色即是空」(私たちは時間的にも空間的にも、選ぶことのできないご縁、選ぶことのできるご縁の中を生きている)と結論が謳われています。毎日の暮らしの中で「大事、大切」と思っていることは案外そうでもないことが多く、「大事」と思っていない「雑」にしがちなことに「大事」が詰まっていることが多いのです。私たちの本来の主体性(仏)とは、常に相対するモノの中に自分を見つけていくことです。他人の中に「自分」を見て、仕事の中に「自分」を見ていくことです。他人を傷つける言葉を発したとき、それは相手を傷つけているのではなく、自分を傷つけています。同様に目の前の仕事を「雑」にしたとき、それは仕事を雑にしたのではなく自分の人生(時間、空間)を「雑」にしているのです。不思議なもので、わたし個人に限って言えば、不安から逃げていたときに限って草引き(目の前の現実)から逃げていました。逆に不安を受けて止めた(向き合った)ときには、しっかりと草引き、草取りをしていた気がします。修行道場での「草引き」エピソードを、先輩(現在の相国寺僧堂老大師)は当時のわたしの姿を「樹さん(わたしの僧名)は(今一瞬を大事にできる)草引き菩薩やなあ」と笑いながら言われます。

「今日も何もできなかったなあ」と虚しく日々を過ごすよりも「今」誰でもできる、いつでもできる簡単な(雑な)こと(と自分勝手に決めつけている)に目を向けてみませんか?そして借り物でない自分の意志で自分の言葉で、自分の歩幅で、自分のリズムで、一つで構わないので「本来の自分」を続けていきたいですね。ちなみに「五蘊」の「蘊」は「陰」とも表すので、まさに「お陰さま」は自分も他人も大事にできる(光を当てる)呪文(お経)です!