令和5年6月法話「懺悔」
懺悔
恥の多い人生を送ってきました
太宰治 「人間失格」より
6月を迎え本年も折り返しとなりました。如何お過ごしでしょうか。吉成寺の本山妙心寺では6月18日に山門懺法会(さんもんせんぼうえ)が厳修されます。
妙心寺山内の和尚様が山門楼上(二階)に上がられ、ご本尊、観世音菩薩、十六羅漢像の前で「懺悔」のお勤めをする法会です。
「懺悔」とは、意識、無意識に関わらず、自らが為した「悪業」を自他ともに告白し、内省し、許しを乞うことを意味します。
突然ですが、皆様にとっての「恥」(恥ずかしい思い)は何でしょうか。禅宗僧侶の私にも人に知られたくない、言いたくない恥ずかしい事実があります。それが「懺悔」です。「懺悔」が「こころ」からわかっていないのです。わたしたちは檀家さんのお葬式では、必ず「懺悔」の儀式を行います。その導師を司るわたし自身が「懺悔」を理解していない。勿論、言葉の上では理解しています。しかしながら、「懺悔」の本質を深く理解していないわたしが、毎回、知った顔で「懺悔」せよと伝道しているのです。この「恥」と言える私のジレンマは今なお続いています。
ですが、今から8年前に吉成寺の創建開山(お寺をお開きなられた初代住職)の没後300年という節目が廻ってまいりました。100年前の大正期に開山200年忌に合わせて報恩授戒会という大事業が厳修されおり、私も僭越ながら「授戒会」を発願させていただきました。「授戒会」はわたしたちが亡くなってから、「戒名」を授かるのではなく、生きている間に授かる儀式です。「授戒会」の要は「懺悔」です。「懺悔」を心から理解できていない私にとって、このご縁を逃せば一生「懺悔」を誤魔化したまま偽物のお坊さんになってしまうと感じていました。「授戒会」は近隣の和尚様方だけで行う通常の歴代住職の年会忌と違って、本山から老大師(一等教師)をお招きして「授戒会」を司る「戒師」となっていただかなければなりません。(地方のお寺の住職は通常、二等教師)その他にも、「晋山式」「大般若経祈祷会」「講席」(老大師のご法話)「加行礼拝」(佛名号を唱えながら五体投地の礼拝)「総供養施餓鬼会」などなど単体でも一日かかる内容の行事が続きます。大変なことは覚悟していましたが想像をはるかに超えていました。構想3年、関係寺院の和尚様方、檀家総代、檀家の方々から様々なご意見(賛否など)いただきながら、ご理解、協力要請に2年かけて何とか「おかげさま」で二日間の「吉成寺開山忌報恩授戒会」を終えることができました。しかしドラマはここからが本番でした。5年以上続いた目に見えない心労が祟ってか、その後「こころの病」に丸3年苦しむ体験が待っていたのです。今になって思えば、望んで病を患ったわけではありませんが、むしろ「苦しんだ」からこそ、少し理解できたことがあります。それが「懺悔」でした。禅宗の恵能大師は問答集「六祖壇経」の中で「懺悔」の「懺」は前非(過去の過ち)を悔いること。「悔」は後過(未来も必ず起こしてしまうであろう過ち)を悔いることであると説法されています。「懺悔」がわからない自分を恥ずかしく思う「懺」(過去の誤り)とは、生きている「今」を大事にできなかった日々でした。そして「悔」とは、この先(未来)大事なことをすぐに忘れて思いあがってしまい、「今」を疎かにしてしまう自分を過信しないこと。私たちは気が付かないうちに、思い上がってしまうものです。「自ら為した悪業」の意味は、私の場合、ある種の「真剣」さが欠けていて何事も中途半端であったことでした。(体験としてのリアルな苦しみ、痛みを無意識に避けて現実逃避していたこと)この自分にとって衝撃的ともいえる事実を受け入れることに長い時間がかかりました。深いところで言えば、私は「懺悔」がわからなかったのではなく、「自分」がわかなくて恥ずかしかったのです。
「恥」とは人に言えない、見せることができないことが、表に出てしまうことを怖れる(語源は覆い隠す)という意味合いです。長年かけて培われた、わたしたちの「恥」という思いは、取りも直さず自身の主観、価値観そのものです。自分自身のことですが、なかなか意識化されません。しかし「こころ」(「脳」のはたらき)は訓練すること(変える)ができます。訓練ですから今日思いついて明日結果が出るというふうにはいきません。少しずつ時間と手間をかけながら慣らしてゆくのです。
「懺悔」はこころの(不具合を自覚した)「再起動」であり、「行動変化」です。わたしは未だに「懺悔」を深く理解したわけではありません。しかし過去の過ちに気づいて(自覚)未来にむかっても「懺悔」するのなら、行動や考え方が以前と変わらないのは、明らかに矛盾であると気が付きました。真剣に自分の人生に向き合う(寄り添う)ということは、勇気を出して(誤った)行為を変えていくことである気がします。わたし自身も過ちを本気で自覚したからこそ、勇気を出して坐禅会、HP掲載法話を「行為」として始め、「こころの闇」とも言える自身の「恥」を意識化し、継続しているのです。禅宗僧侶でありながら「坐禅」も「法話」も、ろくにしてこなかった私は本当に「恥」の多い人生を送ってきました。ですからわたしにとって、坐禅会も法話作成も「懺悔」そのものです。「わたし」という「恥知らず」で何の役に立ってもない、お調子者で愚か者は、すぐに思い上がりへの山を駆け上がってしまいます。ですから「正しい行為」を習慣化して余計な思いが沸き上がってくる暇を作らないよう見張っていなければなりません。「懺悔」とは、自分の未完成さを俯瞰から眺めるもう一人の自分を見失わない「努力、工夫」とも言えます。「おかげさま」も日々真剣に口にできるなら、立派な「懺悔」です。どうか読者の皆様も(騙されたと思って)ご一緒に「おかげさま」を口にしてみませんか?「こころの闇」(かげ)を意識化(ひかりを当てる)しているうちに、自然に「こころ」が「再起動」するに違いありません。