令和5年7月法話「施餓鬼」

施餓鬼せがき

どうしようもない私が歩いている

種田山頭火

 雨が続き、湿気に悩まされる時節になりましたが、如何お過ごしでしょうか。7月、それぞれの禅宗寺院においては「山門施餓鬼会」が厳修され始めます。夏の仏教行事である、「施餓鬼会」「お盆」にはそれぞれ2500年前に遡るお釈迦様在世の頃の因縁があります。

 「施餓鬼」の由来はお釈迦様10大弟子のお一人阿難尊者の因縁です。静かな森の中で坐禅をされていた阿難尊者の目の前に突然焔口餓鬼(口から炎を吹き出す鬼)が現れました。そして「お前は三日後に死んで餓鬼道に堕ちるであろう」と告げて去っていきました。恐れおののいた阿難尊者はお釈迦様に救いを求めました。お釈迦様は「限りない餓鬼や修行僧に供養せよ。そして陀羅尼(特殊な呪文)を唱えることで福徳も寿命も延びるであろう」とおっしゃい、実践された阿難尊者は引き続き修行できた逸話に依ります。ちなみに阿難尊者はお釈迦様十大弟子の中で多門第一と言われ、記憶力に優れ、お釈迦様の教えを忠実に覚えておられたとされています。そして容姿に恵まれて(今でいうイケメン)いましたが、なかなかお悟りを得られず苦労されたと伝えられています。

 私には記憶から消し去りたい過去があります。それは容姿を褒められたことがあり調子に乗っていた時期です。(結構長期間でしたが)今では見る影もありませんが、当時は髪型や服装を必要以上に気にして鏡に映る自分が他人にどう評価されるかばかりに囚われていました。今となっては自分のことなど誰も気にしていないことはすぐわかるのですが、当時は自分のことしか見えていませんでした。異性の目や世間の評価といった「幻」に翻弄されていた以前はそんな自分に気付くことはありませんでした。いわゆるナルシスト(自己陶酔)まっしぐらです。ナルシストは自分がナルシストとおもっていません。(気づいていません)そんなナルシストの私も物事が自分の思い通りにならなくなってきた頃から変わり始めます。学生から社会人、社会人からお坊さんになっていく過程で、少しずつ、自分が見えてきます。それまで自己肯定しか知らなかった私が、苦痛ながら自己否定を覚えていきます。自分のことしか考えていないナルシストの私が見ていた世の中は、どこまで行っても自分が世の中の中心です。自分の醜さ(餓鬼)、卑しさは目を伏せて他人や社会の不条理を嘆き、何も努力しない言い訳にしていた気がします。しかし出家した私が、修行道場で禅の教材「臨済録」に心を奪われました。その中で「祇だ如今、一箇の仏魔あり。同体にして分かたざること、水乳の合するが如し。中略。明眼の道流の如きは魔佛俱に打す」(佛と魔は二つのモノでなく一体である。われわれは皆仏性(清浄)を備え持っているが、同時に悪い癖(魔)(不浄)も合わせ持っている。佛と魔は同居しているのだ。ちょうど乳を水で埋めたようなもので、われわれはどこからが佛でどこからが魔かわからない。だからこそ、佛にも執着せず、魔にも執着しない。これが禅の本領である)と記されていました。私自身の矛盾が指摘されているようで、妙に合点がいったことを思い出します。
 「餓鬼」とは私たちの見たくない一面です。自分のことばかり考えてしまう自分は周りが見えていませんので、醜悪そのものです。自分の醜い姿(ナルシストの私)に自分で気付いたとき、私自身吐き気を催す気分の悪さが押し寄せてきました。どうしようもない私が歩いている(生きている)という酒や女性に溺れた自分を描写した種田山頭火が急に自分のことのように感じました。やるせなさ切なさが心を覆いつくします。しかし目を逸らしたくなる自分を認め、真剣な「自己否定」に辿り着いたからこそ、人生は綺麗ごとではない(自分は綺麗でない)という真理(本物の自己肯定)に至ることができた気がします。自分のことしか見えていなかったときは「今、ここでないところに何か漠然と理想がある」という綺麗ごとの幻に現(うつつ)を抜かしていました。しかし「今」の延長上にしか現実的な未来はないのです。どうしようもない私(餓鬼)だからこそ、一呼吸一呼吸気を抜かず本来の自分を見失わないようにしないと醜い餓鬼が自分を食い尽くそうと虎視眈々狙っています。

 施餓鬼の由来となった「焔口餓鬼経」には、なぜ阿難尊者の目の前に焔口餓鬼が現れたか理由は述べられていません。(野口善敬師 著「開甘露門の世界」より)しかし私にはわかる気がします。恵まれた環境に生まれた場合、それにどうしても依存するこころが生まれ、恵まれてない状況を認めることができません。阿難尊者も雑音が多い都会の喧騒を避け、静かな森に清浄な自己を求めましたが、そんな自分だけに都合いい佛(清浄)はあるわけありません。どこまでいっても雑音(魔、不浄)の中に本物の佛(清浄)があるのです。そのことに気付きながら、蓋をしてしまっていた自身の幻想が焔口餓鬼だと私は考えるのです。ですからナルシスト(餓鬼)も本来の自己(佛)に気が付くためのプロセスだとすれば、それほど悪いモノでもなさそうです。(阿難尊者はイケメンだからといって、ナルシストであったかどうかわかりませんが)しかし餓鬼に気付かず、餓鬼に操られているのであれば、話は別です。お釈迦様がお悟りを開かれ最初になさった説法、四諦八正道とは生きていることが苦しい最大の原因は自分が煩悩に振り回されていることに「気が付いてない」からであるとされています。

お釈迦様在世のインドの言葉サンスクリットで煩悩や欲望を「滅する」は「ニロ-ダ」といい、語源は「制する」です。つまり「なくす、ゼロにする」ことではないのです。どうしようもない私を自覚し、それから逃げるのではなく、ともに付き合っていく「覚悟、自覚」のことです。つまりコントロール(支配、制する)出来さえすれば「煩悩」や「餓鬼」は、忌み嫌うモノではないのです。「どうしようも私」は見たくない「かげ」です。「おかげさま」で絶妙な距離感を保って「餓鬼」(嫌いな自分)に布施(認めて)してみませんか?

  • 「布施」は佛魔(貴賤、損得、美醜、大小など)に関わらず、平等に施すことです。

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