令和5年8月法話「盂蘭盆」
盂蘭盆
そんな私の嘘が本当になるって信じてる
yoasobiアイドルより
連日の猛暑で、だいぶお疲れのことと存じますが如何お過ごしでしょうか。8月となり、ご先祖様をお迎えする「お盆」の時節がやって参りました。「お盆」は仏教が生まれた2500年前のインドの言語サンスクリットでウランバ-ナを示す「盂蘭盆」の略された表現です。「盂蘭盆」の直訳は「倒懸」(逆さ吊にされた苦しみ)とされています。
盂蘭盆にもお釈迦様在世時の因縁があります。餓鬼道に堕ちて苦しむ亡母を救済した十大弟子の目連尊者の逸話です。十大弟子の中で神通力第一とされていた目連尊者は亡くなった母親が死後、六道のどこに趣いているのかを知りたいと思いました。神通力で霊界を隈なく探しましたが、なかなか見つかりません。すると餓鬼道に堕ちて苦しんでいる姿を見つけられたのです。飢えに苦しむ自分の母親に神通力で食物を届けようと試みますが、母親が(渡された食物を)口に入れようとした瞬間に食物は火に変わり食べることはできませんでした。悲しんだ目連尊者はお釈迦様に救いを求めました。「修行を終えて自恣(反省会)を迎えた多くの僧侶を供養せよ。されば餓鬼道に堕ちて苦しむ母親は天上界に生まれ変わるであろう」師の教えに従って衆僧を供養して母親を餓鬼道から救われました。
自恣の日は7月15日(旧暦)であったため、いま現在の8月15日前後が「お盆」となったとされています。
私はこの「お盆」(盂蘭盆経)の話を知ったとき、真っ先にお釈迦様の十大弟子の目連尊者の母親なのに、なぜ餓鬼道に堕ちて苦しむのか疑問に思いました。お釈迦様の元でご修行され、神通力を得られた目連尊者でしたが、生前の慳貪(物惜しみ、つまり極めてケチ)の悪業で餓鬼道に堕ちて苦しむ母親を自分一人で救うことは出来ませんでした。功徳を積んだ(努力した)結果、その影響は母親には及ばないモノなのか?後述しますが、この因縁(盂蘭盆経)にこそ、私が長年苦しんできた「家族」の問題を解くカギがありました。昨年の8月法話で触れましたが、私は家族から特に母親から愛情を感じた経験、実感がありませんでした。母親は自分の思い込みの愛情を一方的に家族に押し付けるだけで、家族がそれを望んでいなくてもお構いなしでした。私自身は子供のころから、他の家族の話、特に美談を耳にするたび、肩身が狭く、自分や自分の家族(母親)は異常なのだろうかと不安を感じていました。そして私は大きくなれば、人生経験も豊かになり、いつか母親とも心が通じるはずと勝手に信じていました。母の信じる「愛」は自分の「愛」を押し付けること。私の信じる「愛」は自分を母に理解してもらうこと。この溝は今も埋まらないどころろか、深くなっていく一方です。どこまでいっても交わりません。相手に伝わらない「愛」はただの自己満足で、いわば「嘘」(虚偽、幻)なのに・・・目連尊者も実母の慳貪を見抜くこと、変えることはできませんでした。盂蘭盆経の中で、目連尊者の母親は500回生まれ変わり、死に変わる中で目連尊者を子供にする「縁」に巡り合ったとされています。私が母親と巡り合ったのも、「愛」がわからない者同士が出会う「縁」であり、それを認めた上で生きていくしかないようです。(怨憎会苦)つまり、家族と言えども、分かり合える(心が通じる)とは限らないのです。
私は「愛」がわかりませんし、体験がないので理解できません。しかしわかってもないのに、わかったフリをして自分を偽っていた時に比べて、「愛」が少し理解できているかもしれません。「倒懸」とは自らの誤った主観(信じている思い込み)で自らが苦しんでいることですが、私自身がまさに、自分の(信じている)思い込みに気が付かず苦しんでいた張本人だったのです。私にとって(理解すべき)人生の本質、真実は、生まれが選択できない、つまり母親さえも選択できない。この一点をこころから理解するのに50年近くの時間がかかったのです。私たちは一人で生きていけません。ですから家族をふくむ他人との関係に「愛」という「絆」「繋がり」がないと不安に感じてしまいます。わたしも家族とは他人と違って特別な「愛」があるはずだと思い込みに縛られ、支配され生きてきました。しかし、私の思い込みの「愛」は幻想でした。家族も他人であり、そこにはお互いの相容れない「主観」(信じている思い込み)があるだけでした。そうであっても、私は絶望できませんでした。家族とも心が通じず、友達と言える人も、ほとんどいない私にとって「生きる」ことは「生かされる」ことです。寂しく、つまらない私でも生きていくしかないのです。そして生きていくという事実は同時に誰かに必要とされなければ無意味であることも知りました。
今の私の考える「愛」とは、積み上げてきたと考える私の体験はほぼ自己満足であり、それを捨ててゼロベースで誰かの役に立つ努力を惜しまないことです。結局「坐禅」と「法話」しか私にはできないのです。何もない空っぽの私には「坐禅」、「法話」こそが「愛」そのものでした。「愛」とは目に見えない以上「信じる」しかありません。ですが、積み重ねられた「愛」(嘘)が本当(現実を変える力)になっているのも、この世の一つの真実(色即是空)です。だからこそ「おかげさま」という「言葉」(愛)を続けていけば、誰かに届く(空即是色)と信じてみても良いのではないでしょうか。