令和5年11月法話「報恩謝徳」

報恩謝徳ほうおんしゃとく

わたしが未来に連れていくから
yoasobi「勇者」より

 山々の樹木も紅葉に彩られ、過ごしやすい時節となりましたが、如何お過ごしでしょうか。11月は吉成寺の本山、妙心寺では開基、花園法皇のご命日に法皇忌が厳修されます。

 花園法皇は自らの居所を禅寺として寄贈されました。その初代住職は花園法皇の師匠、大徳寺開山、大燈国師から弟子の関山慧玄禅師(無相大師)が推薦されました。しかし権威や名誉に関心のない本物の禅僧であられた関山禅師は、幾度となく花園法皇から依頼を受けましたが頑なに断られ続けました。その後法皇は重篤な病に侵され、余命幾ばくもなり、その切なる思いを「往年のご辰韓」(最後のお手紙)として関山禅師に綴ります。その熱い想いに心を動かされ、関山禅師は妙心寺の初代住職(開山)となり、今日私たちに禅の教えが受け継がれています。そのお手紙の中で「報恩謝徳」という言葉が出てきます。国語辞典には「受けた恵みや恩に対して報いようと感謝の気持ちを持つこと」と記載されています。「報恩謝徳」という言葉で最も大事なのは「恩」という文字であると考えます。

「恩」という漢字は「因」(生きている原因)を知る「心」という作りです。

 私は、かつて「報恩謝徳」という言葉が理解できませんでした。勿論言葉の上ではわかっています。しかしながら「恩」が実感を伴った理解に至っていなかったのです。私の場合、「母親」(の考え、行為)が「恩」を理解する上で大きな障害となっていた気がします。これまでのHP法話で何度も触れてきましたが、私の母親はお嬢様が大人になったような人物でした。(自分の考えがすべてで、他人も家族も自分の思い通りになって当然)そういった自己中心、「恩知らず」な親に育てられたが故に、私自身も「自分さえ良ければ」という「恩知らず」になっていったのも、ごくごく自然なことでした。母親の口から「感謝」の言葉を聞いた記憶がなかったのです。耳にしたのは、幼少期の不遇な目にあったこと、自分より家柄が低い(今では人権侵害、差別としか言いようがありませんが)父親と結婚して苦労した話など愚痴のオンパレードでした。私は「感謝」という気持ちが未体験なまま、大きくなってしまいました。

 しかしながら成長していくと、「恩知らず」が他人や社会との関わりの中で、生きていく上で「限界」を感じずにはいられなくなっていきました。少なくとも、学生時代までは限られた人間関係の中、自己中心の選り好みで凌いでいけましたが、社会人となって以降は「感謝」のない「恩知らず」では通用しません。当然それまでの自分では行き詰まりました。そこで初めて、自分自身の「恩知らず」に気付かされ、少しずつ「自分中心」から「社会(他人)の中の自分」という「因」(恩)を理解できるようになりました。同時に新たな「苦悩」が生まれたのです。それは、ある一定の距離がある他人とは、それなりに適切な接し方ができるようになった一方、距離が近い「母親」とは以前にも増して憎悪の思いが強くなっていたことです。私の結婚問題(母親の好き嫌いで破談となりましたが)や仕事のこと、人間関係など様々なことに首を突っ込んできては、私も周囲も混乱させる「母親」は当時、私の最大の苦しみ(逆境)でした。何とかしないといけないという思いが、私の頭を埋め尽くすようになったことを思い出します。当時はこの家族問題解決の糸口が見えず、限界を感じていました。そんな時に「吉成寺後継者」の「ご縁」が廻ってきて、導かれるように、お坊さんに出家したのです。仏教、禅の教えに触れて改めて「母親」の人物像を考えました、父親と結婚して以降はずっと専業主婦だった母親は昭和時代の典型とも言えます。母親はお寺生まれで国家公務員の父親の配偶者という、ちょっとした特権意識、そして自らの僅かばかりの成功体験に依存し、苦労から逃げ続けた結果、他人の痛みを理解しようとする想像力が欠如していました。その結果、自分中心に世界を捻じ曲げて現状が正しく判断できない、思考の現代病に侵されているようでした。(片田珠美著 「自己正当化という病」より)

 私は家族(母親)に「恩」(感謝)を感じるより先に社会で「恩」(感謝)を感じてしまいました。「感謝」のない母親に、恩返しとしての親孝行(報恩謝徳)ができなかったのです。この「他人に生かされながら生きている」こと(報恩)に気付きながらも、最も感謝しないといけない母親(家族)を感謝できないジレンマは今なお、続いています。

 しかしながら、深いところで言えば、私は「感謝の出来ない母親」を受け入れることができないのではなく、母親の中に「感謝が足りない自分」を見て、受け入れることができなかった気がします。様々な経験(逆境)をさせていただいた「今」なら少しわかります、未熟ながら禅宗のお寺の住職をさせていただき、坐禅会や、こうして読者の皆様とHP掲載法話でつながることができるのは、母親を含む時間空間を超えたあらゆる他者の支え(恩)があってこそということを。気に入らない「母親」でも、「親」(因)であることは変わらない以上、「親孝行」せずにはいられないわけです。(距離を保ちながらですが。)

 上手くいかない(逆境)の原因を自分の中に求める以外、本当の「恩」には辿り着くことはできないのではないでしょうか。花園法皇も激動の戦国時代に、お生まれになられたこと(因)を、もしかすると当初は恨んでいたかもしれません。当時の政治的な都合で幼少期に天皇即位を余儀なくされ、それでも平和にならない世界(逆境)に、ご自分の「無力」を痛感されたと拝察いたします。だからこそ、退位後は出家され、ひたすら「禅」に参じられ(報恩)、「法皇」となられました。そしてご自分やご自分の時代だけでなく後世に仏法が盛んになることを願い(恩)、ご自分のお住まい(離宮)を「寺院」として寄贈され、当時の高僧、関山慧玄(無相大師)を寺院(妙心寺)に迎えられました。(報恩謝徳)

 「私」のような、役立たず、お調子者は、死なない程度の「逆境」が丁度良かったかもしれません。なぜなら、「順境」(上手くいく、恵まれている)が続くと、大事なことをすぐ忘れて思い上がる「私」は「逆境」という「ご縁」がなければ、「恩(知らず)」に気づかないまま、今でも誰からも必要とされていないだろうと恐ろしく思うからです。「報恩」とは、自分の「無力」、「無能」に気付き、勇気をもって「認める」(認知)ことであったと思います。私たちは思い通りになる都合の良い「ご縁」(順境)ばかり結ぶことはできません。都合の良くない「ご縁」(逆境)も毎日訪れます。さあ、どうしますか?人生の分かれ道です。生きている「今」を当たり前(恩知らず)と思うか、有難い(報恩)と思うかの。

わたしたちは、本当は、毎日「感謝」して暮らしたいと思っているはずです。私自身、感謝したいと感じながらも、様々な言い訳をして「感謝」を遠ざけていた気がします。なぜなら、「感謝」は「感謝できない」状況を乗り越えないと感じられないからです。つまり苦しみ(報恩つまり苦痛、思い通りならないこと)の中にしか本物の「楽」(安心、謝徳、感謝)がないのです。不自由なく暮らせている毎日が感謝できないのは、わたしたちが、「苦しみ」(不自由)を避け、見て見ぬフリをして蓋をしてしまっているからなのです。不自由なく暮らしている(思い通りになっている)に安住してしまい、家族や仕事があって「当たり前」で平和な日々に依存して(麻痺して)いるに過ぎないのです。

 ですから、せめて一日一回は「おかげさま」を呼吸と調えて口にしないと、こころが「当たり前」に食い尽くされてしまいます。本当は「有難い」毎日(一日)なのに「当たり前」と思ってしまうことに。ちなみに「おかげさま」と「ありがとう」は共に「お経」(仏教、禅の言葉)です。「おかげさま」(報恩)「有難う」(謝徳)セットで口にしていけば、モノクロ(白黒)の当たり前の日々がカラフル(色とりどり)の有難い日々に導かれていくに違いありません。ちょっと勇気を出して自分(過去)を新しい自分(未来)に連れて行きませんか。

※「因縁」とは仏教語で「因」とは、結果を生じさせる直接原因。「縁」とは「因」と共に結果を生じさせる間接原因が合わさった因果関係のメカニズムです。