令和4年12月法話「成道会(じょうどうえ)」
弱い自分を何度でも食らいつくす ~僕の中の僕を超える
yoasobi 怪物より
本年も残すところ、ひと月となりました。年末にむけて慌ただしい日々が続きますが如何お過ごしでしょうか。12月8日はお釈迦様がお悟りを開かれた「成道会」です。
お釈迦様は様々な修行(苦行)をもってしても、安心には到らず、最後は仲間を置いてたった一人で菩提樹の元で坐禅を始められました。ご自身のうちから沸き起こるあらゆる思いに苦しみながらも徹底的に内観(集中してこころを点検すること)した結果、八日目の早朝、明けの明星をご覧になって、すべてをお悟り(成道)になられたと伝えられています。
吉成寺は本山が京都の臨済宗妙心寺派に属するお寺です。私自身はご縁で臨済宗相国寺派の本山専門道場で修行させていただきました。ご存知の通り、臨済宗の標榜する教えはお釈迦様、達磨大師の系譜により「坐禅」が中心であります。とは言え、専門道場での修行は禅堂で結跏趺坐(足を組んで坐る)ばかりしているのではなく、行住坐臥、いわゆる立振る舞いすべてが修行として位置づけられています。言い換えれば生活すべてが「坐禅」であり、「こころ」(姿勢と呼吸)に向き合い続ける「修行」の場です。
わたし個人の考えでは、「修行」とは、意識して心身を屈めてみる(低くしてみる)ことのような気がします。何もなく空っぽなのに、背伸びしては自己主張する(他人の主張に耳を貸さない)、他人に認めてもらいたい(他人は認めない)、相手を批判したり貶したり(自分は批判しない)する割に自己評価だけは高い、私たちは無意識に思い上がっている自分(怪物)に気が付きません。特に私のような出来の悪い者は、一生「修行」は必要です。しかしながら、「修行」とは私たちのありふれた日常を輝かすためでもあります。修行中の挨拶は誰よりも腰を低くして頭を下げ、日々の食事は一汁一菜の粗食、毎日のように禅堂外の縁側で夜坐(就寝時間を削って坐禅)など、一見辛くて厳しいように思えますが、半年もすると慣れてくるものです。この慎ましい生活が「当たり前」と思ってしまえば、逆に修行前の自分がどれだけ自由気ままに生きてきたのだろうと思い知らされます。
終日作務といって道場の境内整備を一日中行う日などは、特別に「豆腐」が斎座(昼食)に出されます。修行中、普段の食事は道場で自家採種した野菜の煮物が中心です。お世辞にも世間的には「おししい」とは言えません。ですから出家前には特に意識することなく、口にしていた「冷奴」に、驚くほどの「ごちそう感」が醸し出され、こころが躍りだすのです。また大接心と呼ばれる一週間の坐禅教化期間は一度も境内外にでず、道場に缶詰めです。その期間が終わってから初めて外に出る「托鉢」では網代笠をかぶっていて、前はよく見えませんが、たまに目に入る風景や人の姿に感動すら覚えます。特に女性は全員輝いていて綺麗に見えるのです。(私が男子だからですが)さらに12月1日から8日未明までは「蠟八大接心」といってお釈迦様の成道になぞらえて不眠不休の坐禅期間となります。この間は坐禅堂では布団敷いて横になることはありません。ですから8日目の解枕(消灯、就寝)の際に布団を敷いて包まったときなどは、汗まみれ、埃まみれのかしわ布団に、言い尽くせない愛おしさを感じます。これらすべては特別なことは何もありません。ただ少し身(意識)を低くして(抑えて)暮らすことを習慣化しただけです。それだけわたしたちは普段、より楽で、快適で、自分の思い通りにしたいという欲求でこころが余裕を失くしてしまっていると考えられます。ほんの少し、その欲を見直せば、刺激に満ちた毎日になります。
しかしながら、欲(怪物)に振り回されている自分に気が付かず、右往左往して毎日暮らしているのが私たちの現実ではないでしょうか。2500年前のお釈迦様ですら、試行錯誤されているのです。自分を不安にさせているのは、他の何者でもない自分自身とお気づきなられて初めて、内なる怪物(こころの闇)との飽くなき戦いが始まり、それを超越され、今日伝えられています。
私自身は、偽りだらけの人生ですが、ある意味、「生きる」ことに正直になったときに、行き詰まりました。その代わり、自分の内なる「欲」という「怪物」に気が付きました。自覚できたからこそ、それに向き合い(立ち向かう)、手綱をつけ、「寄り添って」いけると思うのです。そして自分のできることを他人と比較するのでなく、自分と比較するよう心掛けていきさえすれば良い気がします。お釈迦様の「悟り」(見性)とは自分の本性を見届けることですが、第一歩は「自分は必ずしも正しくない」という極めて単純な真実であると考えます。「自分は正しい」にも執着せず、「自分は間違っている」からも逃げない。思い込み(パラダイム)を手放した先に「悟り」(パラダイムシフト)が開け、「成道」するのではないでしょうか?
「修行」は本来、わたしたち自身がこころの奥底に秘めている(良い)欲である気がします。(悪い)欲に振り回されている自分(怪物)をどうにか変えたいと願う、対極の欲があると思うのです。その実践が「修行」であると私は考えます。悪い欲(怪物)に自分を食い尽くされる前に、防衛手段としての「修行」に一歩踏み出す、それは同時に悪い欲を超えて昨日までの小さい世界しか見えなかった風景をガラリと変え、新鮮な風景に変えてくれるものでもあります。
見たくない、気づきたくない自分こそが「怪物」です。姿勢と呼吸を調えて「おかげさま」(修行)をこころに刻む。「僕の中の僕(怪物)」を超えて新年を迎えることができれば良いですね。
一年間、未熟者の拙い法話に目を通していただいて有難うございました。